宮沢大臣SMバー問題について人力検索で質問しました。

http://q.hatena.ne.jp/1414579272

テレビのドラマに料亭で政治家が会合する場面がでてきます。東京の有名な料亭では一人2万円以上でしょう。一次会で薬研堀のスナックかキャバクラで意見交換、二次会で総額15,000円のSMバープランはテレビドラマ的自民党水準の意見交換水準より、政治資金の節約になっています。

それで、政治家の政治資金の状況に詳しい方に質問です。

1)テレビドラマのような料亭で会合はよくあるのか。
2)だとすれば、東京の政治家が使う料亭の平均的な価格水準はどれくらいか。
4)また、それは政治資金規制法の対象となる資金から出資されているのか。
4)一次会で意見交換をすませた二次会の予算も帳簿にのせるというのは政治資金規制法的には許されるのか。(法律の精神ではなく、標準的な運用のレベルで御回答いただければ幸いです。)

蛇足:私は自民党は大嫌いですが、宮沢大臣のケースは少くとも金額的には全然セーフと思います。また、SMバーの従業員、もしくは、SM嗜好の方々への根強い差別意識も感じます。(正規雇用のOLも、キャバクラ嬢も、SM嬢も同じ人間として尊重するのが日本国憲法の精神だと信じております。)

マジで知りたいので、よろしくお願いします。

L型教員を目指します。

とりあえず、

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/10/23/1352719_4.pdf

とか

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/l-9948.html

冨山氏の悪口いう人が多いが、大学の外や学生の平均的な認識はこんなもんなんじゃないだろうか。要するに人文・社会系の大学の職業的意義は自動車学校以下。

ちょっとだけ、冨山さんに注文。(多分、読まんだろうがこんなブログ)G型教員ダメならL型教員みたいなのあったけども、これは絶対に反対。かつて、教養部が学部の下みたいな意識が、変な教養部改革に結びついて、教養教育をダメにした。L型がG型の下という位置付けでやれば、絶対に多くの教員はついてこないことが予想される。むしろ、君、L型だめなの?仕方ないから役にたたないG型でもやっとけ、くらいの感じで文科省が始めないとダメでしょう。(L型への反発に一部には、かつての学部の下僕のような教養部への扱いを思いださせる部分があるかもしれない。)

それに関連してだけど、まっとうな職業的な意義のある教育にはちゃんとした学問的裏付けが必要となるし、ちゃんとした高度なL型教育ができる教員は研究者であるかどうかは別として、関係分野の学問的動向くらいわかってないといけない。この辺りは本田由紀さんの本を参照のこと。

あと、こっちのほうがより真剣な注文なんですが、大学の職業的な意義のある教育を企業が評価することなしに、L型大学は成功しない。せめて、経済学部で簿記3級とか、ITパスポートとっている学生をTOEIC650点(ささやかすぎますか?)くらいにはみなしてくれないと。さらにいえば、今の職業的意義のない大学の現状であっても3年後期の成績、できれば、4年前期や卒論の準備もしっかりやっていることをしっかり見て企業が内定を出してくれるような下地がないと、L型への移行も難しくなるんじゃなかろうか。運動部やっているほうが、勉強やっているより評価されるようじゃ学生のほうも安心して勉強できない。そのあたりは、冨山さんがぜひ経団連にはたらきかけてもらわなければならない。

いずれにしてもL型の教育実績や教育成果、L型学問をちゃんとやった学生が社会や企業にちゃんと評価されないとうまくいかない。冨山さんの議論には、このあたりの危惧を感じている。

冨山さんが出した例はたしかにちょっと変だけど、逆に文句いっている(特に大学の教員)は職業的素養がないまま、労働市場に放置されている若い人のために何ができるか考えてんだろうか。専門学校化とかいうけど、専門学校以上のことを今の大半の大学は学生に提供できていなんじゃなかろうか。

ただ、大学の教員がこの手の話に気軽に賛成できない理由はよくわかる。自分のことでもあるし。私だって職業的意義のある教育なんてやれていない。この手の話は人文・社会系の教員は自虐なしにはきちんとした議論ができないのだ。それでもその自虐にたえることなしに、大学の状況を放置していれば、ますます、職業的素養がないまま、キャリア形成ができないまま、労働市場に若者が放置される状況がつづくのだ。

新田滋さんの論文にプチはまり

進化経済学会のメーリングリストで、下記の二本の論文を知って、ちょっとはまってしまった。

「宇野理論と限界原理

http://www.unotheory.org/files/2-12-7.pdf

「「復元論」と「分化発生論」について―宇野弘蔵と山口重克の方法論をめぐって―」

http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/nenpo48-7.pdf

「宇野理論と限界原理」は、宇野形態論に限界原理をとりいれるこころみ。「「復元論」と「分化発生論」について」のほうは、資本論のとりわけ価値論があんなめんどい書き方(弁証法的な展開)しているのなんでというが、ずっと頭にあり、それについて無駄に哲学的なヘーゲルの云々みたいなのは除いて、廣松渉のような一部の例外(あとで触れます)をのぞいて、アホにもわかるように書いてる文章がなかったので、「こんなの読みたかった!!」という感じでとても感激した。

それで内容の紹介というより、自分勝手に関連論文をネット・サーフィンしながら考えたこと。最初の二つの節は、ふだん私がなんとなく考えてたこと(でも新田さんの論文を読むおかげでかなり明確になりました)で、新田さんとは直接関係ありません。

宇野派のひとが読むかもしれないので、注意書きですが、私の専門はマルクス経済学でありません。植村高久さんが私の最初の経済学の師匠でしたが、反抗して最初の師匠にそむいたので*1、宇野原論をきちんと読む機会をもっていません。

廣松の唯物的弁証法解釈(まえふり、その1)

このブログの読者にとっては、また廣松か、なのですが、なんで資本論弁証法的かについては、私にとっては廣松渉の話がわかりやすい。というより、合理的に弁証法が必要な説明は廣松のものしかしらない。それは価値の存在のありかたの特殊性からきていて、われわれは交換価値を考えるとき、交換される二つの財についてのなんらかの実体を想定してしまうが、そんなものは物理的には存在しない。実際の商品や労働はまったく個別な、ひとつに還元できるような実体をもたないにもかかわらず、家計簿、簿記、会計など、いろんなレベルで我々は、こうした実体が交換や生産をつうじて移転したり、帰属したりといったことを前提に計算している。そうした実体は商品や労働の属性ではありえないにもかかわらず、私たちは商品や労働の属性として、そういうものが存在しているかのように行動しているのである。これは経済的な諸計算の基礎であると同時に、経済システム全体によって、こうした実体視が生じている。適切な廣松の文献が手元にないので、すんごくいいかげんですんません。

これは塩沢さんなどがいうところのミクロ・マクロ・ループの形になっていて、新古典派的な、あるいは、マルクス以前の古典派的な(あくまで価値論について)ミクロからつみあげていく方法では、ちゃんと分析できない。問題は主体の認識のありかたにかかわっていて、主体の認識(しばしば、錯誤や思い込みをともなう)から出発して、その認識にともなって生みだされる行動が生成する社会をつくりだし、それがまた当初の認識を生み出すという構造を分析する必要がある。廣松の『弁証法の論理』とか、難しくてようわからんので、弁証法自体は理解していないのですが、価値の分析が方法論的個人主義では分析できない理由はだいたい、こんなところと理解してます。

「貨幣の必然性」は別に弁証法的に説明される必要がない(まえふり、その2)

(書いてるあいだに、文体がここからおかしくなってます。すんません)

廣松についていえば、『資本論の哲学』とか『資本論を物象化を視軸にして読む」とか読んでも、私の程度のあたまでは、以上のようなことは分りません。この二つは私にとっては、わけのわからん本です。前の節の内容は、『マルクス主義の地平』、『マルクス主義の理路』、『物象化論の構図』とかで理解したのです。

なんで、『資本論の哲学』や『資本論を物象化を視軸にして読む』がわかりずらいのかは、私の頭の問題を別とすれば、この二つが資本論にそって書かれているからだと思うのです。資本論にそって書かれると、資本論の重要な問題意識である、貨幣の生成を弁証法的に展開するという部分にふれざるをえません。はっきりいって、貨幣が市場において、どうして必要かというのは、弁証法的に説明する必要がまったくないと思うのです。

新古典派でいえば、清滝=ライトの議論がありますし、置塩信雄が『経済学はいま何を考えているか』でしている議論もありますし、市場において貨幣がないと困るという話は方法論的個人主義のレベルで十分にできますし、資本論の解釈史みたいな話は私は無知なのですが、資本論の貨幣の必然性の議論の流れは、実際上、「AでこまるからB、BでこまるからC、CでこまるからD、Dでもこまるから貨幣が必要」という形になっているじゃないでしょうか。それは論理的には、「Aでも、Bでも、Cでもだめだから、貨幣が必要」といっていることと同値で、別に弁証法的に考えなくてもいいんじゃないかと思います。(貨幣に関することがらで、弁証法的に考える必要があるテーマがありうることは否定しません。ここでは、議論を市場経済が貨幣を伴なわなければならないことに限定しています。)

廣松は、資本論弁証法的にいう必要がない議論もむりやり弁証法的に説明しようとする無理にひきづられているというのが、私が廣松の議論を十分に理解できないことのいいわけです。

それでいいたいことは、資本論全体は弁証法で説かれてますが、別に弁証法でいわなくてはなくてもいいことと、弁証法なり方法で、経済のミクロ・マクロ・ループを分析しなくてはならないことの両方があると思うのです。

(以上のまえふりは、主に「「「復元論」と「分化発生論」について―宇野弘蔵と山口重克の方法論をめぐって―」にかかわります。)

冒頭商品論はエッジワース・ボックスに載せられるか

ここから、新田さんの論文の中身にはいります。新田さんは別の論文ですが、「価値形態論と物神性論」のなかで、廣松および柄谷行人の価値形態論に以下のような批判をしています。

http://ir.lib.ibaraki.ac.jp/bitstream/10109/1570/1/20100198.pdf

むしろ、逆に、理想的平均、一般均衡を前提して、貨幣への「命がけの飛躍」を括弧に入れられると考えることこそが、古典派・新古典派理論の特徴なのである 。

しかしながら、資本主義的市場経済とは、そもそもが「命がけの飛躍」にみちたものなのであり、「不断の不均衡の不断の均衡化」としての価格変動が常態的な世界なのである。

とりわけ、廣松については、私自身が新田さんと同様の不満を感じていて、この批判にはとても共感しました。

他方で、私が問題にしたいのは、新田さんの価値形態論への提案では、このような市場の認識は、価値形態論から消滅してしまうのではということです。

新田さんの「宇野理論と限界原理」において価値論をエッジワース・ボックスにのせることが、重要な提案のひとつです。現実の市場がどうなっているかが、提案の妥当性の評価につながると思います。

はじめに同意できることをいうと、現実の市場での取引がエッジワース的なものであれば、価値の実体が限界効用あるいは「限界効用÷価格」とするのは、論理的にまったく正しいと思います。従来の労働価値説との整合性が問題になりえますが、少なくとも搾取に関しては、三土修平さんあたりが、限界原理が成り立つ場面における搾取論を議論していて、肯定的な結果がえられています。

問題は価値論の場面として、エッジワース的な交換を商品の売り手と買い手がしているという想定が適当かどうかです。これには私は否定的です。

宇野派の新田さんにいうのは釈迦に説法なのですが、価値形態論は売り手が自分の商品に値札をはって、買い手がその値札に同意するとき、交換が成立する状況を記述しています。商品の売り手と買い手には非対称性があります。

これはわれわれの日常的な市場で経験することですが、その非対称性の根拠には売り手と買い手が対照的でないことがあると思います。たとえば、スーパー・マーケットやコンビニエンス・ストアで私たちは売り手が値札をつける売買を経験します。この市場で売り手は同一の商品を多数の売り手に販売します。逆に山谷や釜ケ崎のよせばでは、同一の労働力の買い手が多数の労働力の買い手に値札を提示する場面がみられます。企業がひとりの労働者をヘッド・ハンティングするような場面では売り手が一方的に値札を張るようなやりかたは行なわれないと思います。

こういうことを考えると、売り手が値札を張る状況は多数の買い手が個別には小数の商品を購買し、売り手が多数の商品を販売する状況に即していると思います。つまり、価値論は、おそらく多くの論者が想定しているような一つの商品を相対取引する場面ではなく、資本家的な商人や生産者が多数の買い手に商品を販売している状況と考えるのが妥当のように思います。

コアの収束定理について

もう一つの点は、いったん、エッジワース的な交換として、市場をとらえてしまうと、「不断の不均衡の不断の均衡化」といったことは、分析から消えてしまうのではないかという疑念です。

エッジワース的な市場で取引における人数と財の種類が増加していく過程で、おこりうる競争の結果が新古典派における競争均衡に収束していく結果はコアの収束定理として知られています。これが厳密に成立するのは、財の数、主体の数が無限大の場合で、実際には競争均衡に近いパレート集合におさまることになるでしょう。その範囲で「不断の不均衡の不断の均衡化」があるといえるかもしれません。

ただ、それは均衡であって、しかも、新田さんは交渉集合上で取引されることも受け入れているのですから、静学的な状況を考えれば、主体の予算制約上で均衡が実現します。そのような状況を不均衡とは、すくなくとも大方の新古典派経済学者は見做しませんし、それが価値論がもちえている市場観をささえるものとはなりえないと思います。

主体均衡概念の強烈さ

新田さんは主体均衡概念の強烈さを過小評価しているというのが、私の印象です。マルクスの価値形態論の特質は売り手と買い手の非対称性を市場の特質として正確に把握し、それを市場認識の基礎においていることです。それは「不断の不均衡の不断の均衡化」という認識を可能にしています。

ただ、主体均衡が成立してしまえば、市場において売り手が値札を張るというということをしていても、不均衡は可能なコアの範囲におさまります。「不均衡」はせいぜい、競争均衡と現実のコアの誤差の範囲におさまります。このような経済がマルクスの価値形態論の長所を生かしているとは思えません。

ただ、逆に私が新田さんに共感しているのは、方向は私が受け入れられるものでないにせよ、明確なメカニズムを想定した上で価値論を再構成しようとしていることで、私が批判できるのも、明確な議論をされているからです。

私は「価値論と物神性論」での廣松・柄谷批判を全面的に賛同します。そこで明確にされたようなマルクス価値論の特質がマルクス経済学に十分に生かされていないとも感じています。つまり、「不断の不均衡の不断の均衡化」が経済システムにおいてどのような役割をはたしているかです。私はそれを明確にするには、新田さんがしたように、経済メカニズムを想定して分析することが不可欠と考えています。

私がそれを生かす一つの方向と考えるのは、均衡化がそもそも無理な状況で人間がなにをするかです。それはサイモンが限定合理性を強調し、手続き合理性にゆきついた方向です。限界原理と関連していえば、例えば、ほとんどの企業は自分が直面する市場の需要の価格弾力性を知りません。そのような状況で(よくはわかっていない)限界収入と限界費用を一致させるような価格を設定することは、きわめて危険なことです。通常、ほとんどの企業はちいさな需給状況の変化には価格をおおきく改訂することはなく、数量調整を行ないます。

エッジワース・ボックスに関していえば、相対取引において、互いに効用関数を知っている状況ではナッシュ交渉解という均衡が知られています。そのような実現可能な一種の主体均衡が存在します。しかし、現実には相手の効用関数などはわかりようがなく、たとえ、なんらかの推定手段があったとしても、その推定の誤差によって、大きな失敗があるとすれば、それを主体はさけようとする可能性が大きいと考えられます*2

現実の経済の環境を考えれば、主体均衡を追求することは、限定合理性のもとで、それほど「合理的な」ことではありません。むしろ、限定合理性のもとで不確実性*3を避ける行動なり行動の枠組みが必要になると思われます。

このような方向はマルクスを含む古典派やケインズ派の「ミクロ的基礎付け」になるでしょう。また、限界原理を基礎をした新古典派経済学への明確な批判を導くと思います。

「「復元論」と「分化発生論」について」がらみのことは、また近日中に書きます。

*1:影響をうけすぎるとしばしばあるものですね。

*2:ルビンシュタインが計算量が限定されたもとでの最適化行動を厳密に議論しています。その結果は計算量の限定を前提とした最適化問題はもとの最適化問題より、かならず、計算量が大きくなるという結論です。この結果が限定合理性についてどれだけ一般化されるかはわかりませんが、ある種の限定合理性を仮定したモデルの結論が常人にはほとんど計算不可能な解を導くことは、それほどめずらしいことではありません。

*3:新古典派の想定するようなリスク回避ではなく

塩沢由典『複雑さの帰結』7章から

以下のエントリでの塩沢由典さんのコメントを読むと『複雑さの帰結』での塩沢さんの文章を思いだす。
http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20140701/p1

均衡経済学がいまや経済学にとって障害になっているという主張は、ひとつの仮説である。われわれが経済学の次の段階に到達し、現在の理論的沈滞を打ち破るまで、均衡経済学が実際に経済学の障害であるかどうか知ることはできない。だから、基本的に、これはひとつの賭けである。信じるか信じないか、それはあなたの選択である。しかし、もしあなたがそれを信じるならば、あなたは特定の仕方で行動しなければならない。なぜなら、認識論的障害の考えがあなたに否定的な指図を与えるからである。あなたはどのような形であれ、どのような場合であれ、理論的ツールとして決っして均衡の概念を受け入れてはならない。拒否は全般的なものでなければならない。そうでなければ、あなたは現在の理論的閉塞状況から決っして逃げ出すことはできない。それはまさに自分自身との闘いである。しかし、そうすることがより困難に見えれば見えるほど、均衡の概念を越えて進むあなたの機会は具体的なものである。学問上の打開はこのような困難な道を通じてのみ達成可能である

『複雑さの帰結』7章「定常性の第一義性」p.254

複雑さの帰結―複雑系経済学試論

複雑さの帰結―複雑系経済学試論

私自身についていえば、若いころから塩沢さんを知っていたにもかかわらず、50近くになってやっと、塩沢さんに近い方向にふみだそうと思うようになった。それは日常的に接する多く同僚や、かつての恩師を裏切るような感覚が今でもあって、ちょっとした親殺しのように感じている。

「秋山のブログ」の『リカード貿易問題の最終解決』関連記事

更新できなかった理由。
http://ameblo.jp/chichukai/entry-11874155582.html

TPPに関する考察
http://ameblo.jp/chichukai/entry-11877367944.html

価格はどうやって決まるか?
http://ameblo.jp/chichukai/entry-11878656204.html

不況を解消するためには
http://ameblo.jp/chichukai/entry-11883957533.html

リカード貿易問題の最終解決――国際価値論の復権

リカード貿易問題の最終解決――国際価値論の復権

塩沢由典さんのコメント
http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20140412#c1403195869
で、上記のブログの記事を教えていただいた。

また、関良基さんのブログで、この記事をめぐっての塩沢さんと関さんの議論のログが公開されている。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/d7a636784a534cb08de7441c11abd38a

秋山さんは1ヶ月かけて、『最終解決』を読み込まれたとのことで、私なんかより、よっぽどちゃんと読んだことがうかがえる文章ばかりである。

秋山さんの力量もあるのだろうが、塩沢さんの本がとても多面的な本であることが、経済学を専門としないかたが深く内容を理解することを可能にしたようにも思う。『最終解決』はリカード・スラッファ貿易理論の完成した姿を伝える本であると同時に、そのような完成を可能にしたアプローチの特質と、なぜ、他の誰もそれができなかったかを明かにすることも目的としている。それは理論のコアを問うことでもあり、経済学の歴史を問いなおすことでもある。その意味で、内容の高度さにもかかわらず、とてもユニークな経済学入門になっていると思う。

私自身についてもなのだが、塩沢さんの経済学者への影響はかなり「破壊的」な部分があったように思う。『市場の秩序学』あたりを、ええかげんに受容してしまうと、形式だった経済学への反感ばかりが増長されるような傾向があり、塩沢さんも反経済学的ないちゃもん(あるいは、共感)をつけられて迷惑もしたのではと想像する。そのあたりでバランスをくずしちゃっている反塩沢派も塩沢シンパも『再建する』と『最終解決』を読んでバランスをとりもどすべきではと思う。(そういう人は、そもそも『近代経済学の反省』をちゃんと読めていないことを反省すべきだが。)

経済学を再建する―進化経済学と古典派価値論 (中央大学企業研究所研究叢書)

経済学を再建する―進化経済学と古典派価値論 (中央大学企業研究所研究叢書)

近代経済学の反省 (経済学研究双書)

近代経済学の反省 (経済学研究双書)

同時に秋山さんのブログを読んで感じたのは、医者で素晴しい医療経済研究家がたくさんいるのはどうしてだろうということだ。池上直己さんとか、二木立さんとか、アマチュアの域を越えている方が何人もいる。他の分野で◯◯経済の第一人者が◯◯の専門家ということはとてもまれだと思うが、医療では、すくなくとも第一人者に近いひとが医療従事者である。

それとインターネットが普及しはじめたときにも強く感じたのだが、職業的な研究者でなくても、きちんと研究している人は少からずいるということだ。

話がとてもとんでしまうのだが、職業的な研究者が学問の自由を声高にいうのが、とても嫌いで、職業的な研究者の学問の自由など、せいぜい、すべての人が学問の自由を享受できないような資源の制約のもとでくらいでしか正当化できないものと思っている。職業的な研究者なんて絶滅してしまっていて、研究したい人は研究する自由と資源があたえられるのが、本当の学問の自由の実現された状況のように感じる。リカードも、マルクスも職業的な研究者ではなかったのだし、職業的な医者がいない状況はとても困るが、学問の自由が本当に保障されたもとで職業的な社会科学の研究者がいない状況はべつに誰もこまらない。(私もふくめた大学の教員をのぞいては)

高増明他『ポピュラー音楽の社会経済学』

これは、年末にイラストを担当している吉田雅明さんからいただいて、ちゃんと紹介したかったのですが、のびのびにしているのもなんですので、簡単に紹介を。

ポピュラー音楽の社会経済学

ポピュラー音楽の社会経済学

この本の出版はとてもうれしいです。というのは、経済学部で音楽に関連したテーマで卒業論文を書きたいという学生はかなり多くて、そのような学生が始めにとりくむ本として紹介できる本がいままで皆無でした。今後はこの本を重要な参考文献とする卒業論文が日本中の大学に提出されるのではと思います。

この本の重要な特徴は高増さんをはじめ、音楽を好きな人が書いていることです。こう書くと、なんじゃそれといわれそうですが、たとえば、コンピュータ産業や半導体産業は多くの研究者の注目をあびてますが、「コイツ、本当はパソコンに興味ねえだろ」的な本が多いのにあきれます。私のような中途半端なパソコンオタクからしても、コンピュータ業界の人間がほぼ全員しっているようなことを知らない研究書があふれているのはどういうわけでしょう。プログラミングコードが書いてあるコンピュータ史をわたしはまだ見たことがありませんが、この本にはコード進行にもとづいた楽曲の分析があります。

この本というより、高増さんの以下のインタビューもあわせての印象ですが、ちょっと中島梓の『コミュニケーション不全症候群』を思い出してしまいました。中島は文藝のカラオケ化を批判するのですが、佐村河内がもてはやされる現状を批判する高増さんも同様な方向があるのではと感じています。

高増明:日本のポピュラー音楽って大丈夫なの?──AKBや佐村河内守現象の背景にあるものとは:THE JOURNAL:THE JOURNAL(THE JOURNAL編集部) - ニコニコチャンネル:社会・言論

コミュニケーション不全症候群 (ちくま文庫)

コミュニケーション不全症候群 (ちくま文庫)

しかし、私はたたとえばバンド・ブーム(すでに古いですね)や駅前で若い人達のときにはヘタクソな弾き語りが蔓延するような情況は結構歓迎しています。

音楽でないですが、娘がフィギュア・スケートをやっていたのですが、元オリンピック選手のコーチが親のオリンピックへの夢をつついて、大金をせしめるようなビジネス・モデルが蔓延しているを目撃して、驚きました。フィギュア・スケートというのは子供にとって、とても楽しいスポーツで、子供が楽しそうにクルクル回っているを見るは親にとってもとても楽しいことです。それで満足するだけでいいと思うのですが、どうもフィギュア・スケート界の一部には、親のへんちくりんな上昇意識を刺激して金をせしめるという風潮がかなり根強くあるように感じました。

音楽界でも、一部にはそういうのがあるのでしょうが、ヤマハのエレクトーン教室のようなクラシック界などのプロの世界とは切れた音楽のジャンルがあるのは、私にはいいことで、レベルの低い音楽をカラオケ的に演奏する人びと相手の商売を楽器業界がビジネスとして根付かせているのは、とてもいいことではと思うのです*1

さきほどあげたバンドブームも、カラオケも、プロ仕様のシンセサイザーがアマチュアにも買えるようになった情況と深く関係があり、ムーアの法則とアマチュア音楽やカラオケの関係というのは、この本を出発点とするような研究の重要な論点になりそうに思うのですが、いかがでしょうか。

と簡単な紹介のつもりがすきかってなこと書いてしまいました。

*1:ただ、エレクトーンってなんであんなに高いんでしょう。機能的にはPCM音源の鍵盤3つ(一つはペダル)であの値段はちょっとぼったくりに思えます。手軽に素人が鍵盤楽器するなら、KorgMicro Korgあたりがいいんじゃないでしょうか。KorgYAMAHAの関連会社なんで、YAMAHAMicro Korg教室とかすれば、私は通います。

KORG アナログキーボードシンセサイザー ボコーダー microKORG MK-1 マイクロコルグ 37鍵

KORG アナログキーボードシンセサイザー ボコーダー microKORG MK-1 マイクロコルグ 37鍵

塩沢由典「成長中立的税制」

http://www.tkfd.or.jp/vcasi/675.html

末尾の参考資料参照。

こちらはかなり前にセミナーの資料として報告されているものですが、内容の重要さにかかわらず、あまり言及されていないようなので、紹介します。

塩沢さん自身はバブル崩壊後の日本の現状を強く意識していて、その面でも重要な貢献であるのですが、私はカレツキの流れを引くポストケインジアンの消費理論の素直で厳密な拡張として重要だと思っています。

卒直にいえば、思いつきとしては私も同じようなことを考えたことはあります。思いつきだけなら、考えてみた人はけっこういるように思います。ある意味では非常に素直なアプローチですが、私がよくしらないかもしれませんが、ポストケインズ派で同様のアプローチはないのではないでしょうか。

マクロ経済学のノートとしてすでに書いているので、そのうち、ここでも書くかもしれませんが、通常の線形の消費関数の仮定と代表的個人によって、消費性向の階層間の違いのマクロ経済への影響は、通常の教科書モデルでは消えてしまっています。カレツキはそれをモデルの中心的な構成要素にしているのですが、私もそうですが、もうっちょっと、厳密にやれないもんかと思っている人もいるんじゃないかと思います。

塩沢さんの分析はそのあたりをちゃんとやれば、こうなるという研究にもなっているように思います。