経済学の線引き

404 Blog Not Found:効率性の必要経費

これらは相互に関連しているのでどれがどれより重要だということはないのだけど、各国の発展を見れば、だいたいどんな順番で発展させていけばいいのかはわかる。

まず最初になされるべきは、輸送と通信。80億人分の食料があっても飢餓がなくならないのは、これが一番の原因だ。先進国の余剰は届かないというより届けようがないのである。

次に必要になってくるのが、科学的合理主義。これには教育が必要で、その原資は輸送と通信によって得られる。

これで、効率的な輸送と通信、そして効率性に理解を示す市民が出来て、はじめて私有財産権をを尊重すうだけの余裕が生まれる。

多分、これが経済発展の典型的パターンの記述として妥当であるかどうかは、経済史をあたってみなければならないが、市場経済にバックボーンが必要であるという主張はその通りだろう。輸送と通信の発展が格差を解消するであろうことは世界中の財が国境がなく、輸送や通信の必要な距離で消費、生産されている状況を思考実験すれば十分である。

とりあえず、まず確認したいことは私の http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20061116/p1 より、弾さんのほうがはるかに現実に即した議論になっていることである。

私は二人の人間の所得が技術的な条件によって実現可能な集合を描いた。このような分析は技術の中身を考慮せずに分析が可能であり、その意味で強力である。しかし、逆にいうと私のように技術の具体的中身に無頓着な人間でも屁理屈をこねくり回すことを可能にする。しかし、弾さんの示唆から想像つくように、ある経済への技術や制度の導入には順序がある。それは所得についての機会集合の背景に隠れたことがらであり、私のやったような分析では見えてこない。

「効率的市場」という場合に私が一番違和感を感じるのは、その市場そのものを運営するためのコストがどこにも登場しないことだ。


弾さんは市場が効率性を実現する条件を問題にしている。これは新古典派の多数の人々の議論に対しては有効な批判だ。私自身、あれをかきながら、後進国と先進国にともに効率的市場があることを前提にしていた。しかし、現実には弾さんの指摘するとおり、効率的市場にはそれを支えるバックボーンがあり、市場をささえるには多くの場合、費用がかかる。ところが、ほとんどの新古典派の議論は市場がすでに成立し、しかも、市場を維持するコストはタダとみなして議論している。

いそいで付け加えると、そのあたりをきちんとやろうとする人々は多くいて、青木昌彦らの比較制度分析を自称する人々*1なり、ダグラス・ノースあたりがあげられる。手頃な教科書は下に挙げる。しかし、にもかかわらず、経済分析のほとんどは市場はすでにあり、タダで手に入ると仮定したモデルをつかっている。

新制度派経済学入門―制度・移行経済・経済開発

新制度派経済学入門―制度・移行経済・経済開発

しかし、逆にいえば、弾さんの議論のほとんどは効率的な市場の維持あるいは生成コストを明確にあつかったうえなら、通常の経済学の枠組で分析可能であると思う。一つは経済学の用語と弾さんの用語の体系の間での意志疎通のなさにある。これは意志疎通のなさであって、どちらがいいとかいうことではない。私は後進国の所得を飢餓水準を上回らせるために、パレート効率性を満たさなくなる可能性を指摘したが、このとき、先進国の所得を減らす要因を、発展途上国の市場整備のための投資と考えれば、弾さんの議論は私の指摘したことの一パターンといえる。経済学の用語では、発展途上国に効率的な市場が成立しておらず、発展途上国への市場コストの節約で先進国が高い所得を達成している状態はパレート効率的なのだ。逆に発展途上国のために先進国が市場コストを負担している状態は現状にくらべてパレート改善ではない可能性が大きい*2。これはセンの指摘するへんちくりんなパレート均衡の一種といっていいだろう。

えーと、私は弾さんに経済学嫁といいたいのではありません。私はここ弾さん周辺の論争に参加するようになって楽しくてたまんない。梅田さんのいってたのはこういうことかと実感してます。私は投稿拒否*3におちいっているようなヘタレ教員でありまして、先週から、自分の研究より、弾さんそのほかブログ読んだり、書いたりしているときのほうが、経済学しているなと感じてたりするわけです*4。自分にそういう役割が期待されているわけではないかもしれませんが、経済学者のジャーゴンと弾さんたちとの通訳になればいいかな、それ楽しいなと思っているわけです。

弾さんのエントリには示唆されることがたくさんりますが、それは、時間があるときにまた書きます。

*1:って青木、奥野以外に何人いるのかな?

*2:発展途上国の市場の効率化が先進国に利する場合はこの限りではない

*3:誤変換ではない。投稿をリジェクトされることでもない

*4:私が論文かかなくとも山形先生の効用には無関係だそうですし。あと、奥さんがみょうに私のブログの書き込みに関心をもってくれるのがちょっとおかしい。研究には無関心なのに。

北島さんへ

インナーゼミ報告論文作成で大変なあなたがよもやこんなブログを読んでいるとは思いませんが、万が一のための書きます。あなたとの約束の時間を変更した理由はメールで書いたとおりです。私はブログのために研究時間はけずりますが、教育はこれまでどおりヘタレていきますのでご安心下さい。

ところで、北島さんとは関係ありませんが、「ブログ書いていた(専門的知識の供与による社会貢献)」は時間外労働の申請書にかけるでしょうか。

拝啓稲葉振一郎先生

私のようなヘタレの記事を先生の超有名ブログで紹介していただいてありがとうございます。

たぶん正しい大学モデル - 痴呆(地方)でいいもん。

教養の経済学でもわかる貧困と市場の問題 - 痴呆(地方)でいいもん。

多分、先生のような立派な方が私のような卑しいもののブログをお訪ねになられたのは、松尾匡氏から、「大学モデル」のすぐ下にある「マルクスの使いみち - 痴呆(地方)でいいもん。」をお知りになられたからと想像いたします。私個人としては「マルクスの使いみち」の書評になってないのは自覚しておりますが、上記二つの記事に劣らず自分なりにエネルギーをそそいだものであります。紹介していただけないのは、「稲葉やるからそこをどけ」がよろしくなかったのでしょうか。御立腹されたのでしょうか。脚注であらかじめ「稲葉先生ごめんなさい」と書いたのですが、やっぱり失礼にも程があるのでしょうか。

なお、この記事はこのブログの有力なお客さまであらせられる某掲示板の某板のみなさまへのサービスの一貫でございます。本気になさって、返答などされますとこちらがかえって困りますので、万が一読まれても是非みなかったことにしてください。

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