吉原直毅氏の参照基準への発言について

下書き保存のまま,しばらく放置になっていました.すみません.

さっそく稲葉振一郎さんからクレームが.

吉原直毅の力のこもった文章も載せておいてほしい
http://b.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20150416#bookmark-247310557

編集の過程について,うっかりものの私がなにかいうと他の執筆者,編者にご迷惑をおかけしますので最小限の発言にしたいのですが,編者ひとりのこらず,吉原さんの文章が掲載できなかったのは,残念と思っているはずです.

個人的な願望で,吉原さんにも,他の編者,執筆者にも承諾なしですが,吉原さんの文章,発言も『経済学と経済教育の未来』の一章として読んでいただければと勝手に思っています.

追記:5月28日 『経済学と経済教育の未来』編集委員会から,吉原さんに原稿依頼があった経緯も,吉原さんがそれを断った経緯もありません.誤解をまねきうる表現であったことお詫び申し上げます.

吉原さんに共感するのは,特定の学派一本槍の経済学部での教育内容が学生にとっての関心をひかないものになりつつあることへの危機感です.私は『未来』の中で職業的意義を強調しました.もちろん,職業的意義と無関係ではありませんが,吉原さんの発言は学生にとっての学問的意義や市民的意義をより強調する方向だと思います.私は職業的意義を無視して,学問的意義や市民的意義ばかり強調する多くのアホには共感できませんが,以下のよう部分をから読みとれる吉原さんの学生への視線のため,反感を感じません.

私自身の経済学への関わりの経験に基づけば、現在の主流派のミクロ・マクロ経済学を学び正確に理解する事と、スミス、リカード以来のポリティカル・エコノミーの系列の経済学を学び、それらの視角を身につける事の、その双方によって、資本主義的市場経済システムの光の部分と影の部分をバランスよく理解する事が可能になるし、それに基づく資本主義認識のパースペクティブは、主流派のミクロ・マクロ経済学の先端的テキストのみから経済学を学ぶ場合に比べて、はるかに広くかつ深いものになれる。そのような学識を今の学生なり、市民が求めていないならば仕方ないかもしれないが、実際には、その潜在的な需要は少なからずある。それは、2011年以来、この夏をも含めて3度のサマー・スクール「Summer School of Analytical Political Economy」の運営経験から経た私の実感である。本提案のような路線で経済学の教育の体系化が進むとすれば、それは社会運営上の主権者の一人として資本主義的な社会経済の仕組みを批判的に理解する為の学識に強い需要を持つような「問題意識の高い」学生たちを結局、スポイルする事となり、そのような学生たちの経済学への興味自体を失わせ、去らせる事になり兼ねない。それは、日本社会の将来にも負の影響を及ぼす事に他ならないだろう。

多少感情的なことを書けば,私が職業的意義にこだわるのは,その欠如が教育現場において学生のニーズを無視されていることの反映であるからです.その面からいえば,わざわざ職業的意義など強調しなくても,普通に学生のニーズをくみとられるならば,出発点が職業的意義であろうが,学問的意義であろうが,あんまり問題ないんだろうなという気もしています.多くの教養やら,市民的意義ばかり強調する一部教員(ん,大多数?)は,あらゆる意味で学生のニーズに応えないいいわけとして,そういう「意義」を強調します.そもそも,そういう教員の学生への無関心の結果が現在の意義の消失しつつある人文社会系の大学教育の根本にあると思います.

以下,吉原さんの参照基準関係のリンク

日本学術会議経済学委員会・経済学分野の参照基準検討分科会による「経済学分野の参照基準(原案)」に関する拙見
http://www.ier.hit-u.ac.jp/~yosihara/131204sekknn.pdf

岩本,吉原対談掲載の経済セミナー

経済セミナー2015年5月号

経済セミナー2015年5月号

対談「経済学部教育が目指すもの」(上の岩本康志さんの紹介)
http://iwmtyss.blog.jp/archives/1022852956.html

よそから来た人はこっちも買ってください.

経済学と経済教育の未来―日本学術会議“参照基準”を超えて

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