事実の認識の一致では決着のつかない場合とそうでない場合

濱口さん。ごぶさたしております。

いや、そういう場合(認識論的に決着がつけられない)ゆえということもあるでしょうが、こうすればこうなるという点では認識が一致していても、その価値判断において一致しないということが大きいと思うのですが。

(中略)

云うまでもなく、福祉国家の是非は何らかの価値判断基準が不可欠です。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_0735.html

事実についての認識が一致しても、政策のあり方の対立がありうることとはおっしゃる通りです。先日のエントリはこの点をまったく見逃していた点でミスリーディングだったと反省いたします。

説明が必要なのは、あの福岡正夫の文章はケインジアンマネタリスト、合理的期待学派の論争の文脈で書かれていたものです。財政政策によって非自発的失業をコントロールできるかどうかという問題は、問題そのものとしては、価値判断の問題ではなく、事実の問題であるはずです。にもかかわらず、このあたりの話は今現在も価値判断の問題であるかのように議論されることが多いように思います。

もちろん、事実の認識についての議論についても、実際に議論するのは、それぞれ個人的な価値判断をもっている人間がするのですから、ある事実の主張の動機がなんらかの価値判断にもとづくのは当然です。だけども、論点が事実の認識が問題なのか、事実の認識では決着のつかない問題なのかははっきりさせる必要を感じます。

先にあげた財政政策の効果もそうですが、計画経済と市場経済のいずれが効率的かといった問題も価値判断の問題でなく、事実の問題ですし、福祉国家の問題に関することでも、事実の問題と事実の認識だけでは決着のつかない議論の両方があるはずです。私が経済学をはじめた80年代はそれがごちゃごちゃになっていたように思います。それは今にして思えば、価値判断に都合のわるい事実を見ないふりをする傾向からくるものだったように思うのです。

釈迦に説法だったかもしれません。そうだったら、ごめんなさい。