ホメオパシーにおける科学不信

poohさんのところで、先日の記事がとりあげられていた。

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コメント欄でのやりとりで、誤解があるように感じたので、釈明をコメント欄に書いていたら長くなったので、記事にしました。

まず、先日記事では、「ホメオパシーの需要」の合法化を主張したつもりで、ホメオパシー自体の合法化を主張したつもりはありません。でも、明確にそのように受けとったことを前提に発言されている方がおられないようですので、私の文章が不明確だったのだろうと思います。

ホメオパシーの需要といったのは、ホメオパシー支持者がホメオパシーを使う理由くらいに思っていただければと思います。個人的見解としては、ホメオパシー支持者がホメオパシーを使おうとする理由のいくつかは、それほどヘンチクリンなものではないと感じています。ひとつの例として、生存と生きることの価値の問題を挙げました。

ホメオパシーへの需要はホメオパシー支持者が通常の医療において、彼らの欲求が十分にみたされないと信じているから生じているはずです。そして、それらの欲求のほとんどのものは、医療の手段が科学にもとづくかどうかには、あまり関係ないように感じます。すくなくとも、理屈のうえでは、ホメオパシー支持者が近所のお医者さんで、欲求がみたされる条件があり、それを理解するなら、ホメオパシーを選ぶ理由はなくなります。すべてそうなるとは思えませんが、多くのホメオパシー支持者は、医者への反感のエネルギーを客観的な認識へとふりむけるのであはと思います。ホメオパシー支持者の欲求が他の手段によって満されるならば、ホメオパシーが支持される理由も、すべてではないにしろ、なくなる。これが先日の記事でいいたかったことです。

ホメオパシー支持者はよく自然信仰と揶揄されますが、私は、一番身近なホメオパシー支持者からは、むしろ強烈な医学不信や科学不信を感じます。少数のサンプルを一般化するのはどうかと思いながら、あえて一般化すれば*1、医学不信や科学不信の背景には、科学をふくめた学問が学校のなかで選別の道具につかわれ、その結果として学歴が社会のなかの最も強力な選別装置であることがあるように感じます。それをおいといても、ホメオパシー支持者は、科学や医学によって、人間が選別されたり、物あつかいされることをとても強く恐れているように感じます。彼らの科学・医学への現状認識が正しかろうが、あやまってようが、自分の生や死と関わる場で、人間らしくありたいという欲求自体は普通のことだろうと感じます。

しかし、ホメオパシー支持者に対して、「あーもったいない」という感じを抱きます。こういうことを告白するのは恥しいのですが、デカルトなりカントなり、あるいはマルクスといった過去の科学主義的な近代主義者が人間をさまざまな従属から解放する意図をもっていたことと、現在においても、そのような方向で科学をうけとることが可能なことに私は希望をもっています。(それは、現状の科学への批判にも当然つながるものですが。)仮に現状の科学なり、医学なりが彼らのイメージどおりのものとしても、科学的態度のすべてを捨てさってしまうのは、とてもバランスの悪いことのように感じます。とりわけ、多くのホメオパシー批判者が感じているでしょうが、治療として効果があるなしについての無関心と、その無関心が生む問題への現実感覚の欠如は、卒直にあきれています。

ただ、ホメオパシー支持者のほとんどが持っているであろう、生や死に人間らしくかかわりたいという願いはきちんと受けとめられて欲しいと思います。むずかしいことですが、ホメオパシー支持者と批判者の間で、ホメオパシー支持者の願いが共有されているという信頼のもとで、やりとりがなされれるとすれば、ホメオパシー支持者の強度の科学不信もいくぶんかやわらぐのではと思います。

最後に。感じる人には感じられるかもしれませんが、個人的には医療機関マーケティング活動より、ホメオパシー支持者とどうつきあうかという問題のほうが、差し迫った問題です。妻との関係というより、妻の周囲の人々のあいだでホメオパシーの話題がでるたびに、結局、自分の意見をつたえることができず、気持わるい思いをしています。波風たてたくないという臆病もありますが、ホメオパシーに向う動機の根っこまでは否定するのはとても暴力的なことに感じるのです。また、ホメオパシーへ向う動機を共有できない限り、聞く耳はもってもらえないというのが、実感です。

*1:良い子はみならってはいけません