濱口さんへのカメレス

濱口さんのエントリで気がついたことを書こうとしてたんですけど、授業の準備→同僚と酒飲む→授業の準備→学生と酒飲む→授業の準備→同僚と酒飲む というアホな生活サイクルに陥いってしまっております。また飲み会はいっちゃったんですけど。(1ヶ月前から、「今度飲もう」とお楽しみにしていた同僚の誘いなので断れない)

その間にも何回か書きかけていたのですが、書いている途中でブラウザが落ちたりもしたのもあるのですが、濱口さんに気づかせてもらったことというのが、気がついてしまえば、あまりに単純なことなので、書いている途中で自分がアホに見えてしまって続きを書くのが萎えてしまうのです。以下は40すぎまでこんなこともわからん奴もいるというアホの見本として読んでいただければと思います。

私は経済学をちゃんと始める前に、時々ここでも言及する鬼頭秀一先生*1科学史を教わって、いっぱしの相対主義者をきどっちゃっていました。「科学の進歩」なるものは単純な真理の蓄積のプロセスではなく、そんなことをいうのは現実の科学の歴史をしらんあほのいうことだと、今もって、「現実の科学史」などよー知らんのに、えらそうに思っていました。科学といえども、世界観のひとつであって、異なる世界観のいずれがより現実的であるかを判定するのは原理的に不可能だと考えていました。

けれども、自分の仕事として科学のひとつである経済学にかかわると、当然ながら、自分のやっていることは現実とつながりがあって欲しいと思うようになりました。それどころか、ここ最近はpoohさんをはじめとする皆さんに似非科学批判について啓蒙され、ブログで「俺は現実知りたいねん」と叫びだす始末です。

だけども、威勢のいいことをここでもいろいろ書いていたのですが、かつての相対主義にきちんと決着をつけて路線変更したわけではないので、心の底では「現実」などと安易にいってええんやろかとか、もろもろの疑心暗鬼がとぐろをまいていたのです。

濱口さんにいわれたことをきっかけに考えたことの一つは、哲学で問題にされる、例えばカントの物自体のようなものと、科学や社会科学における事実はずいぶんレベルの違うものではないかということです。本当の現実というのは我々は接っするとが不可能です。社会科学や科学でいう事実というのは、結局は同一の対象についての複数の観察者がいる場面に関ることがらのように思います。複数の観察者がいるときに、同一の対象について違う見解があるときに、ひとびとは観察者から独立した、客観的な事実の存在を思いうかべ、複数の見解から、なんらかの形で客観的事実に近いと思われる見解をつくりだそうとするのだろうと思います。(素人哲学ごめんなさい。)

もしそうならば、我々が向いうる「客観的事実」というのはカントの物自体のようなものではなく、我々の間で共同主観的に形成された、なんらかの意味で妥当な認識の一種でしかありません。そういう意味では、物自体の認識を真の客観的認識とする立場からすれば、われわれのいかなる認識も客観的とはいえません。これを認める点では私は現在でも相対主義者です。

だけども、我々が複数の観察者の異なる見解から、なんらかの見解を事実として受けいれる場合、そのプロセスについて、妥当なプロセスとそうでないプロセスを区別することはできます。そこ区別の根拠自体、評価する側のなんらかの価値観を前提するものではあるでしょうが、要するに我々は科学的方法についての規範をもつことができます。

濱口さんの指摘は私なりに乱暴に要約(曲解?)すると「てめーら、経済学嫁とかいってるけど、おめーらの規範どうりには、おめーら自身の論争自体すすんどらんじゃねーか。ばか」ということです。(で、いいでしょうか濱口さん)これは単純に事実として認めたいと思います。通常科学者・社会科学者は、おそらく客観的事実にちかづくのが善であるという価値観をいだきながら、その分野での論争を行ないますが、科学者・社会科学者はそうした規範にのみのっとった行動をとるわけではありません。濱口さんの、いつもながらの深い教養にうらづけられた具体的な指摘に対して、私の無教養を反映した、無闇に抽象的な表現になって恐縮ですが、規範意識は科学者・社会科学者の行動の動機のひとつではありません。とりわけ社会科学者の場合、その論争での発言が社会的影響が発言者自身の生活や社会的地位におよぼす影響が大きいので、論争が重要性をもつほど、科学者としての規範意識以外の利害に影響される側面が大きくなると予想されます。(環境問題なり、水俣病のような自然科学者の行動の社会的影響が強い場面では自然科学者も規範意識以外の利害に影響される側面が大きくなると予想できますし、実際そうだと思います。)

このようなことを考えつつ、私が納得したのは、歴史的に科学者・社会科学者がどうであれ、科学の規範を論じることは可能であるということです。これは単純に経済学の教科書のはじめに、実証と規範の問題として語られるおなじみの問題を単に科学や社会科学の歴史に適用しただけのものであり、今になってやっと気がついた私はなんてアホなんでしょう。

ただ、規範の問題についていえば、我々は神さまではありませんので、夢のような規範理論を考えたとしても、我々がなんらかの意味で実行可能でなければ、無意味です。これについては、http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~suchii/evol.ethics.htmlから示唆をうけました。この点で我々がどのような行動をとりうるか考える上で、現実の科学者・社会科学者が歴史的にどのように行動していたかを知る必要があると思います。今後とも、濱口さんにビシバシしていただければと大変うれしいです。

*1:学生のころは面と向って「先生」なんて呼ばない失礼な奴だったなー

コルホーズにおける「経済学的発想」(松尾論文へのコメント)

うー、学生と読書会終って、飲み会だー。いましか書けん。

経済政策形成の研究―既得観念と経済学の相克

経済政策形成の研究―既得観念と経済学の相克

というわけで、献本いただいてから、長期放置状態の松尾さんの例の論文へのコメント(リンク等はあとでちゃんとしますんで。すみません)*1手元に本がない状況で書いてます。ごめんなさい。

最初に本全体についてですが、この本がリフレ万歳本だという批判がありましたが、それはちがうと思います。第一点には林=プレスコットにはじまり、あのぶ厚い林本にまとめられた、平成不況をサプライサイド不況と説明する説をこの本がぼろくそにしているわけではありません。これはこの本の著者達の見解ではなく、私の印象なのですが、この本で批判されているのは、小泉「構造改革」派、および、野口悠紀雄(あーいっちゃった)とかつての私(以前のエントリ「ミクロ馬鹿の日々」読んでください)のような人々であって、とりあえず、林一派(というと怒りますか)のように、筋の通った反リフレ派をぼろくそいうのが、少なくとも主目的ではないと理解してます。

それをふまえていうのですが、この本はその意味で、政策形成の一般理論構築への重要なあしがかりではあるけれども、対象自体は、まっとうなリフレ派対痴呆ミクロバカの対立がめだったいた時期に限定されている考えています。したがって、松尾さんの経済学発想も確かに経済学の基礎知識と直結しているものをとりあげているにもかかわらず、それが一般的に妥当な現状認識をうながすかどうかについては、多少の留保が必要に思います。

たとえば、ケインズの一般理論を出版のすぐにうけいれた人々はどうだったのでしょうか。いろいろいるのでしょうが、大恐慌で失業があふれかえっている状況を目撃して、その経済秩序の状態を人智によってコントロールすることを期待する、松尾さんからいえば、操作可能命題を抱いていた人々がケインズにひかれた側面は大きかったように思います。一般理論に対する「あんなの部分均衡分析でないの」という一般理論への批判のほうにむしろ操作不可能命題に近いものを感じます。また、ケインズ政策金利生活者窮乏化の側面から、ゼロサム命題的にケインズ政策を支持する人もいたのではないでしょうか。

確かに市場経済は交換のない状態にくらべれば、パレート優位ですが、市場経済の中での政策によって実現可能な利得のフロンティア上では、ゼロサムに近いケースはありえます。例えば、公平性と効率性のあいだのトレードオフがあれば、効率性をあげれば、貧困層の利得がさがり、経済全体から多くのパイの配分がある富裕層の利得は下ります。インフレターゲットが有効であるような経済状況においても、実質金利の下落は雇用を増加させることで失業者の利得を上げますが、株や債券などの利回りで食べている金持ち老人の利得は下ります。

もっと極端な例をあげましょう。コルホーズで多くの人々が強制労働につかされている状況で、非常に生産性が低く、多くの人々が不満をかかえているとしましょう。ここで、共産党は「生産性が低いのはみんなが利己的で自分勝手であるからだ。みんなで協力すれば、みんな幸せになるはずだ。共産党が搾取しているから、人々が貧しいなどというのは、経済学を知らないトンでもだ」といって、さぼった労働者はクルメール大学のマツオニッチ・タダースT. A. ダスマツォフ准教授にリカードの比較優位説の講義を強制的に聞かされるとしましょう。このような状況でT. A. ダスマツォフが反動であり、T. A. ダスマツォフの経済学的発想も反動であるのはいうまでもありません。

市場経済全般を理解する上では、経済学的発想は重要ではありますが、ここの経済状況に関しては、それが、正しい認識の足をひっぱることはありえますし、逆の発想がまっとうな認識をうながす場合もありえます。過去ミクロバカであった私にとって、松尾論文は耳がいたいものでありましたが、正直いってうーんと思ってしまうのです。

大学の教員としては、松尾さんのいう経済学的発想はなるほど、その通りですし、松尾さんほどクリアでないけど、陰謀論っていうのは、経済学からほど遠いんだよくらいのことは言ってきたつもりです。だけど、成果があがりません。けれども、それは、経済学内部ではなく、広い知識一般の観点から見ればそんな惡いことではなかなーとも思います。経済学的発想ではなく、世間の人々の経済への認識は、経済学の教育以上にその人の育ってきた環境に左右されるものです。ダスマツォフに洗脳されたくらいでは、階級意識を根絶することが不可能なことは歴史が教えるところです。ひとそれぞれの歴史を背負って、社会があーなったらなーとか、今の社会は素晴らしいとか、リフレマンセーとかいっているわけで、まあ、時にはそれでコーゾーカイカクなったりすんですけど、それ自体が人々の生きてきた歴史が社会に反映されるプロセスであって、いつかは人々の思いの上部構造が下部構造と齟齬をきたして革命だーなどと、松尾さん以上にマルキストになっている今日このごろです。(なんのこっちゃ)

*1:一ヶ月放置してごめんなさい。