正しく怠惰であること

ある委員会でのことであった。そこでは業務の発注をどの業者にするか決めていた。

そこで、技術的に低レベルの業者に業務が発注されそうな雰囲気になった。いろいろ状況証拠はあったのだが、(詳しく書くとどこの委員会の話か学内の人間に分かってしまう)私はいちいち理由をあげずに、「ここはどうも技術力がひくいと思われる。ほかの会社にしてほしい。」といった。結局はその業者は発注からはずされたのだが、私の意見に次のような反対意見がでた。

「この業務は発注したあとの保守の仕事はこちらがしなければならない。あまり技術力のありすぎるところに発注すると保守が大変ではないか。」

これは逆である。技術力がないところほど、技術力ある人間でないと引き継ぎ以降の保守が大変な状況をつくりだすのだ。仕事の能率というのはたとえば、計算が早いとか、タイピングの能力が早いとかいうのとは別に、いかに能率のいい手段を選択するか、いかに手抜きをするかという能力に大きく依存する。この点で能力のない人間の仕事をそのやりかたを含めて引き継ぐと大変な目にあうだろう。

こんなことを書いているのは今日、別の委員会ですこし疲れてしまったからだ。そこではたくさんの人の書いた原稿をあつめて印刷物をつくる計画をしている。印刷物は部、章、節、小節から構成されている。

こういった印刷物を書いているとき困るのは、執筆者が書いている途中で構成がかわってしまうとこだ。たとえば、Aさんが第1章を書いているとき、Bさんが第2章を書いているとしよう。そこで、Aさんが第1章の内容が入り組んでいるので、2章にわけようとおもって、自分の第1章を二つの章にしようとしたとしよう。そうするとBさんの書いていた章は第3章になってしまう。この問題の印刷物は図表の番号などには部、章、節をしめす数字が使われていて、このようなことが生じたときいちいち書き直さないといけない。

私の提案はそういうことは面倒だから、何部、何章、何節は§、§§、 §§§とでも書いておいて、あとから、なおした方がいいということだった。それとテキストファイル入稿なのだが、それも箇条書など、出来上がって字ズラどうりに打ち込むと最近のワープロは字の幅を勝手に調整するので、箇条書きも字ズラと関係なしに書き方をきめて、あとで調整したほうがいいと提案した。

この提案は受け入れられなかった。それはいい。なぜなら、このことで本当に作業の能率があがるかどうかは修正の数によるので、私の提案で作業がらくになるか本当のところわからないからだ。しかし、これに対して、「そんな高度なことを云々」という反応があったのに少し疲れた。また、「ワープロなんだから、修正は簡単だ」と一言ですまされるのにも、ちょっととまどった。こちらの方法も修正は簡単といえば簡単なのだ。どちらが簡単かが問題なのに。 (さらにいえば、この作業はわれわれではなく、おそらく担当の部署の事務官がする可能性が高いので、彼らにそういう単純作業を押しつけるのに気が引けた。)

わたしがワープロ音痴のような顔をしていたら、こういう反応はなかったろう。 (と私は妄想する。)しかし、私は自他ともみとめるコンピュータオタク(技術力はないが)であり、どうもわたしの提案はオタク的観点からされたとみられるふりがある。(と私は妄想する。)実際そうであろう。TeXで文章をかいたことがある人は私の提案がTeXでの文書執筆の経験からきていることと、この提案で大幅に手間が省けることがしばしばあることを理解していただけると思う。

しかし、私の意見はまわりの反応をみるとどうも手抜きとは反対のものにうけとられた。たとえば、膨大な表計算ソフトの結果を手で、ワープロに写している後輩にAWKをつかえば一発だと教えてあげたときも、同じような反応をうけた。どうも、手でやれることを他のコンピュータの作業で楽にできる可能性を指摘するといつもこちらが疲れる反応がかえって来る。どうも、「この人はオタクだから」で済まされている感じをいだいてしまう。

まあ、以上の回りの反応への私の感想は被害妄想としてもいいだろう。しかし、次のことは事実である。国立大学を含めた日本の役所での大きな税金の無駄使いの多くは、なんでも紙と判子で手続きをすすめることであり、その結果として、パソコンが普及しても単なる清書作成機の役割しか果たせないことにある。 (これはオタクから評判がわるく、しかし、オタクでない日本の人々に最も尊敬されているビルゲイツもいっていることである。)そして、ここからは私の推測だが、その原因はコンピュータが仕事を減らせることへの無理解にある。