暗黙知と経済学者

昨日、「阪神関連グッズの売行きは経済学者よりデパートの店員のほうが正確にいいあてられる可能性がたかい」と書いた。

これには異論があるかもしれない。ありそうな反論のひとつはは「デパートの店員は統計学を知らないので、ある程度完備されたデータがあれば、経済学者の方が正確な推論ができる」というものだ。たしかにこのことがあてはまる場面もあるだろう。

しかし、日常生活をおもいおこせば、われわれが意識的に理論を使って意思決定する場面はかなりわずかである。われわれは空気とか雰囲気とかわけのわからんものに流されて自分の行動をきめる。こういったことは否定的にとらえられることが多いが、要は理論化しにくい情報にもとづいて、明確に意識化できないプロセスで意思決定をしているということだ。経営学関係でもよく言及されるマイケル・ポランニーに暗黙知とは、ようするにこういった情報とプロセスにしたがう行動におけるスキルをさしているのだとおもう。

『ユーザ・イリュージョン』 ユーザーイリュージョン―意識という幻想 によれば、われわれがうけとる情報のうち、意識が処理している部分はほんのわずかである。しかも、意識が処理している情報のうち、意識的になんらかの理論によって処理しているものは、もっと少ない。また、すべての理論は、容易に意識できる情報をさらに限定することによってなりたっている。つまり、すべての理論化はわれわれがそれこそ体全体でうけとる膨大な情報を捨てることでなりたっている。

経済学者以外で、しかも、経済の領域において、予測がうまい人はたくさんいるであろう。将来のついての予測はビジネスでの成功の重要な要素である。優秀なセールスマン、経営者なかには、経済学者が得意とされている領域でも予測がうまいひとであることはありそうなことである。そういうひとは果して経済学を使って予測をしているだろうか。わたしはそうは思わない。彼らの予測についてのスキルの大部分は「暗黙知」でできているのではないだろうか。

そうだとすれば、彼の予測は経済学の論文にできない。そういう意味でほとんどの経済学者は安泰である。しかし、彼らが経済学者の領分を犯す可能性は十分にあるだろう。優秀なセールスマンが産業連関表のようなど素人でもつかえる経済学をツールのたすけをかりて自分の分野の経済効果について論文を書きはじめたとしよう。経済理論にもとづかない彼の論文がアカデミズムの経済学でうけいれられる可能性はほとんどない。しかし、予測の的中率では彼が経済学者をうわまわる可能性は相当ある。それが経済学者以外の人々にしられるようになれば、彼はアカデミズムの経済学者より、世間から信頼をえるだろう。

まあ、実際、こういうことは現実にすでに起きているのかもしれない。実際、日本においては経済学者は信用されていない。これは経済学者からは、世間が理論を理解できてないせいにされることが多いが、実はまっとうな根拠があることなのかも知れない。