たまたま、こういうブログ http://d.hatena.ne.jp/suikyojin/20050419を知ったのだが、やっぱりこういう話はどこでもあるのだなと感じた。

一般均衡なり、教科書的な部分均衡分析なりを批判するのは簡単である。それは非現実的なモデルであるからだ。したがって、ちまたの教科書的なミクロ経済学への多く批判にたいしてはうなずくしかない。教科書のモデルが現実的ではないのは本当なのだ。

しかし、それが主流の経済学への批判にはかならずしもならい。そのへんのことは教科書でさえ、ふれているし、多くの経済学者がモデルを現実にちかづけようと努力している。

にもかかわらず、多くの人が経済学を批判するとき、一般均衡的なものの批判に終始する。ほとんどの人がふれるミクロ経済学一般均衡的なものだけだからだ。

わたしはミクロ経済学を10年間教えてきたが、一般均衡が現実的な話として話をしたことはない。それは分権的なシステムにおける情報処理システムとしての価格メカニズムの役割を理解してもらうための方便だと考えている。その観点からいえば、価格以外の情報の流通がない状態から出発すべきだし、価格メカニズムの有効な場面の想定として、完全競争市場を仮定する。現実の経済では価格以外の情報をつかっているが、それをはじめから導入するのは話を複雑にするだけだ。これはあくまで私の授業での話だが、ほかの教師も一般均衡的なものが現実的と考えて、教科書的なミクロ経済学を教えているわけではなかろう。

おそらく、教科書的なモデルをふまえてのミクロ経済学への批判として有効なのは「そんなとこから出発しても、現実にちかづけないよ」ということだろう。たぶん、それがミクロ経済学者にとって、いちばん痛い。つまり、一般均衡から出発して拡張していく仕事全体を批判することだ。実はそれはそれほどむずかしくはない。(やれといわれれば私でもできるだろう。)しかしそういう批判はめったにおめにかかれない。