たぶん正しい大学モデル

教員は牛で、事務官は飼育者

大学はよく、企業とか,役所とか、場合によっては軍隊になぞられることがありますが、それらはまちがった議論です。

大学の組織形態に近いのはむしろ牛が放牧されている牧場です。牛の飼い主あるいは、飼育者が事務官なり文部官僚で、牛が教員です。企業の労働者や官僚などとちがって、教員は大学に忠誠心などあまりもっていません。そして、牛が牛舎からでて外で草をくって帰ってくるように、教員は学者ギルドで大学の組織目的とは無関係な学問をして、ときどき、教育をしたり、お役所しごとをしに大学に帰ってきます。

文部官僚や事務職員の仕事は、牧場のことなど無関心の牛から乳をしぼり出すことに似ています。牛をほっとけば、いつまでたっても,牛舎にはかえってこないので、牛乳をお客さんにとどけることができません。そうなると牧場はつぶれます。それと同様に大学教育に関心のない教員をほっておくと、まともに教育するはずがありません。だから、飼育係は時間どおりに教員が授業にでたり、あんまりひどい教育をしないように看視する必要があります。

ところが、困ったことに、牛とちがって大学の教員は自治をいうものを餌のほかにやる必要があります。牛は餌をやったり、外に連れ出したりすれば、機嫌よくまるまる太って乳をだします。しかし、教員は大学の中で自治というものを欲しがっています。これは本来、学者ギルドの中で学者がまるまる太らすために、大昔の頭のいい飼育者が発明したものですが、学者はこの自治が大好きでギルドの外でも自治がないと機嫌がわるく、ギルドから大学に帰るのをしぶったりするのです。そのうえ、ギルドの中の訓練の結果、こいつらは屁理屈だけはたけており、あれやこれやと大学全体が学者の自治にあふれていることがいかに普遍的かをとうとうとしゃべくります。

でも実際、大学が学者の自治で動くとろくなことはないので、ほとんどの飼育者は屁理屈にあわせて、字ヅラは自治があるかのように、でも、実質は学者の自治がまったくないような方向に誘導します。でも、これは飼育者にとって、屈辱的なことです。これがうまくいったとしても、言葉の上では、飼育者が牛の奴隷のような扱いをされるからです。「お牛さま、お牛さまー」と牛にぺこぺこしながら牛を飼っている人がいたらみんなあわれむでしょう。牛は飼育者がいないとなんにもできないのに。それと同様に、なんにもできない教員を飼育しているのに、教員がいばっているので官僚や事務員は,外面とはうらはらにうっぷんをためていくのです。

ここまでのまとめ
- 教員は牛で,官僚や事務員は飼い主です。本来、組織の決定権を持つべきはどちらでしょうか。おわかりですね。
- でも、教員は飼い主にぺこぺこしてもらわないと、機嫌がわるくなります。
- ぺこぺこされるのは気持ちよくても、するほうは悪いにきまってます。

牛の管理をするためには、牛の生態を知る必要があります。現在の大学の問題は官僚や事務員が学者の生態を無視して大学を運営する傾向が強まっていることです。この危険性は大学が本質的にもっているものです。牛の放牧の場合、牛が野原でなにをしているか、容易に観察することができます。しかし、学者はほとんどをギルドの中でくらし(研究室はギルドをカプセル化したものとみなすことができます)、飼育者はギルドの中の暮らしを観察することができません。

しかし、飼育者はギルドの中を直接のぞけなくても、学者の生態についてのかなり有力な情報を得ることができます。ギルドは周りの社会と無関係には成り立っているのではないので、まわりの社会からのインプットとうけて、アウトプットを返します。インプットのうち、重要なものは,お金です。この点、大学のお金の調整し、教員に配るのは飼育者の仕事ですから、教員以上に多くの情報をもっています。もうひとつは、教育と研究業績です。これについては、はっきりいって、現在の大学では飼育者はまったく無知であるといっていいと思います。

教員の授業を見る機会のある飼育者は現在の大学では皆無です。研究業績はギルドの暗号で書かれていて、ギルドの外の人間には読めないように書かれています。それで飼育者たちは自分達でもわかるデータを収集して、教員をコントロールしようとします。教育については、授業アンケート、業績については科学研究費の申請、採択状況やインパクトファクターといった数値化されたデータを収集して、教員をコントロールしようとする傾向が強まっています。それとともに、もともと情報をもっていたお金のデータをより教員のコントロールに役立てようとしています。

こうした数値データだけにたよる方法は少なくとも理想的ではありません。むずかしい問題はありますし、これからする提案はとっぴにきこえるかもしれませんが、方法のひとつは単純に飼育者が教室やギルドの研究会に参加し、看視することです。看視とストレートにいえば、学者ギルドは抵抗するでしょうが、その本音を隠して「いやー、先生の素晴らしい研究を拝聴したくて…。ぺこぺこ」これで、OKです。やはり生態観察のほうほうはフィールドワークにまさるものはありません。その観察の成果をどういかして牛を飼い慣らすかは飼育者の肩にかかっています。

以上に加えて、大学では牛が一種類しかいないかのような飼育方法がとられる傾向も強まっています。学者は学問分野ごとに別々のギルドを作ります。そして、ギルドごとに学者の生態が違います。たぶんこれは推測なのですが、現在の大学の飼育者達は、お金の投入の大きなギルドに有効な方法をすべての教員に適用する方法をとっているのではないでしょうか。そのギルドとは具体的に医学系、工学系ギルドです。

「あー、文系のひがみか」といわれそうですね。半分はそうですが、半分はそうではありません。医学系、工学系ギルドと社会系、人文系ギルドの違いを節を変えて論じます。

社会系、人文系の学者数は過剰である(「あいつら、研究しとらん」という理科系教員の言い分は正しい)

と、いきなり、同じ分野の同僚から文句がいわれることを表題にしましたが、学者ギルドの規模からいえば、人文系,社会系ギルドは最適規模より過剰な人員を抱えていると思います。学問の生産性からいえば、人文系、社会系の人数を減らして、医学系、工学系の人数を増やしたほうが、社会全体の学問の生産性は増えるでしょう。

しかしこれは、教育を含めると社会全体にとってよい方向とはかぎりません。なぜ、人文系、社会系の学者の数が多いのかといえば、学生あたりの教育コストが低いからです。おおまかにいえば、医学系、工学系の学者ギルドの規模は社会の応用自然科学への需要によって決まり、人文系、社会系の学者ギルドの規模は社会の高等教育への需要によって決まります。したがって、医学系、工学系は学問の生産性の観点からみて、適正にギルドの規模が保たれる傾向がある一方で、人文系、社会系は学問の生産性の観点からみて、ギルドの規模が過剰になる傾向があります。もっとストレートにいえば、人文系、社会系は教育の需要を満たすためにカスの学者を抱えているのです。

おそらく、戦前のように高等教育への需要が小さかった時期は人文系、社会系もその学問への需要によってギルドの規模が決まっていたと考えられます。しかし、現在のように高等教育への需要が高い社会では、安価な教育でその需要を満たすために学問の生産性と違った原理で学者の数が決まるのです。

また、医学系、工学系の教育費は人文系、社会系より高額ですが、研究,教育にかかる費用はさらに膨大であるために、人文系、社会系の教育費の一部は医学系,工学系にまわります。さらに税金を含め、医学系,工学系の教育を受けた層と人文系、社会系の教育を受けた層の間のお金の流れを考えると、人文系、社会系の教育を受けた人々は支払うより安いコストの教育を受け、医学系、工学系の人々は支払うより高いコストの教育を受けていることになります。ただこれは、必ずしも不公平とはいえず、この差額は医学系、工学系の研究,教育の社会全体への成果への人文系、社会系の人々の支払いとみなせるでしょう。

この結果として、社会全体が一部の医学系、工学系の社会的に生産性の高い分野の学問を支えつつ、望む人々が高等教育を手にすることを可能にしているのです。しかし、その一方で人文系、社会系の平均的な研究者はぺんぺん草間で刈り取られた畑で学問業績をあげなければならない状況に追い込まれ、多くは大した業績をあげることができないのです。

しかし、にもかかわらず、人文系、社会系の教員が教育をおこなうために、つまり乳を出すために必要な知識や熟練はぺんぺん草もはえない畑で右往左往する中でしか得られないのです。たとえそれが、カスであってもカスさえなくなれば、人文系、社会系の教育はさらに荒廃し、医学系、工学系をささえることも不可能になります。

医学系、工学系向けの管理システムを人文系、社会系に導入するとさまざまな問題が発生します。医学系、工学系はたくさん投資することで高い生産性がみこめる分野です。しかし、人文系、社会系は少なくも人的資源は過剰な分野です。はっきりいって、同程度の知的能力人間が同じ程度の努力をした場合、生産性の高い医学部のほうが、ぺんぺん草もはえないフィールドで研究する人文系、社会系よりはるかに社会的に有用な成果を残せるでしょう。人文系、社会系の学者の努力はえてして社会的観点から見て無駄な努力になりやすいのです。その無駄な努力のしわ寄せは教育や大学の行政のほうにしわ寄せがくると予想できます。逆に医学系、工学系の生産性の高い研究は教育に対しても高い波及効果がみこまれます。そうであるなら、医学系、工学系は研究に教員の努力を研究に向ける比重を高める方向を,社会系、人文系では研究と教育のバランスをとる方向が適切だと推測されます。*1

また、工学系、医学系では大規模な投資資源をいかに運用するかが、適切な資源配分上の問題となります。それは具体的には優秀な研究者にたくさん研究費をあげることで達成できるでしょう。*2それは、自分の優秀さをしめすために研究の努力をする誘因ともなります。しかし、人文系,社会系では、そのような効果はあまり期待できないうえ、また、研究成果自体も,最低限度の研究費が保証されていれば、研究費と研究業績はあまり相関がありません。このような状況で研究費によって動機づけをしたとしても、ほとんど効果がないか、効果があがるほどの研究費をしはらうとすれば、高くつきすぎることになります。

この二つの理由から、工学系,医学系と人文系,社会系ではちがった基準の研究費配分のルールが要求されます。

いままで、人文系,社会系は医学系,工学系と違った「学問の特色」などで異なる研究費配分のルールを要求してきました。そうした議論はギルドの外には伝わりにくいものだったと思います。ここでの議論は単純な生産性格差と資源配分の関係から導けます。教育へより大きい比重をという提案は反対もあると思いますが,人文系,社会系において研究費によって研究の動機づけを行うことが無駄が多いことはほとんどの人文系,社会系の人々から賛同をえられるように思います。この認識の一番の障害はこれをみとめるためには自分は医学系,工学系にくらべて生産性が低いという事実をうけいれることでしょう。

また、このことは,結果的には人文系,社会系の研究費の節約となり,希少な資源を医学系,工学系に振り分けることが可能になり、結果的に医学系,工学系の発展にも貢献します。

*1:さらにいえば、人文系、社会系のギルドの中の畑は荒廃しているのですから、研究→教育のフィードバックより、教育→研究のフィードバックの方が相対的に強くなる傾向があるといえるでしょう。

*2:優秀な研究者とその生産性がきちっと測定できればですが