深遠な教育議論について

寝つけれないので、リアルでのトラブルがらみ。前にも書いたのだが、ちょっと教育関係のひととケンカ。(リアルでも敵がつくっちゃうタイプなのです)いろいろ論点はあるのだが、教育問題って、原理的な部分で議論する人が多すぎないか。

たとえば、いじめの問題にしても、あれで目立ってることとして、いじめで自殺が出た校長の不手際で、ありゃーそんな深遠な問題でなく、役所としての中学校が機能していないんでしょう。それとこれは私にとって他人ごとではなく、知っているひとは知ってるうちの学部の入試出題ミスの問題がある。3年次編入の試験で数年前とおんなじ問題をだしてしまった。ボケとしかいいようがなくて、受験生の皆様にはほんとに申し訳ありません。そして、我々の問題はもっとなさけなくて、官僚機構の云々レベルの問題であり、もちろん、これからそういうレベルでも対策が検討されなくてはならないのだが、もうどうしようもないボケなことをしたというところを出発点にしないと、一般論ではなく、我々がとってもヌルイ人達だということ出発点にしないとどうしようもないのだ。それこそ、世間と受験された方に申し訳がたたないのだ。

我々の失敗を教育行政の問題とか、大学間の競争のうんちゃらとかで評論してくれるセンセイがいたら、もう、我々は大喜びだ。そうそう、状況が悪かった。僕達にも責任はないことはないが、なんて方向にいくにきまっている。でも、それは結局我々の地盤沈下にしかならない。

それと、我々の入試出題ミスの問題と全然別だが、教育問題でも文部省が単にバカであるから起こっていることがたくさんあるように思う。大学にいて、役所がおんなじ管轄にある小中高をみると、あーいっしょのことやってると思うことがたくさんある。そういった問題は別に官僚機構が云々でなく、単に文部省という役所のダメだからである。大学だって単にその大学ローカルな問題でつまづいている面がたくさんある。(独法化がそれが加速した面はあるにせよ)

多分、教育現場にいない人は、自分のわかる情報にもとづいて教育についてなんとか理解しようとしてくれてるのだろうと思う。それは大変ありがたい。でも、多くの場合、ほんとに不幸なことだが、具体性を欠いた断片的な情報にもとづいた深遠な本質論は大抵の場合、当事者にとって都合のよい言い訳を提供する。ローカルな問題はとことんわからずやになって、対応したほうが、解決しやすいように思う。こういう問題の場合、問題を深遠に考える程、実態からとおざかる。

もちろん、教育は教師が担うのだし、教師が生徒や学生にたいして、なんらかの願いというか、希望をもたなければ成立しない部分がある。そこの部分で深遠な本質論みたいなものは意味があるのだろう。しかし、それを実現するのはそういう願いとか希望とかを物理的な表現に変えようとする努力であり、願いや希望を反映するよう、行政を含めた教育のマネジメントをきちんとする努力であるはずである。

と、具体性を欠いた一般論をしてしまった。