経済学の啓蒙活動について

前に一部で注目を浴びたエントリと同じ題ですが、あそこで、田中くんがらみでない論点をもうっちょっと書いときたいと思います。

上で書いたように、田中くんの本と飯田さんの『経済学的思考の技術』を読んで、それへの書評というより、それに即発されて考えたことです。飯田さんの本に触れるのではっきりことわっておきますが、ここでの議論は飯田さんのいう意味での「議論」ではありません。定義のきちんとしてない事柄についてあーだこーだいうわけですので。

経済政策を歴史に学ぶ [ソフトバンク新書]

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経済学思考の技術 ― 論理・経済理論・データを使って考える

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前のエントリでとりあげた野口旭さんもそうなんですが、田中くんと飯田さんの本には明示的であるにしろ、明示的でないにしろ、共通の仮想敵があると思います。それはきちんと経済学の話ができない経済学者です。田中くんのいいかたを借りれば、構造改革主義者といってもいいとおもいます。田中くんの本より、野口さん、飯田さんのほうに濃厚ですが、そいつらは論理的思考やら、経済学的思考やらやっとらんので、ちゃんとした経済学的思考なり、論理的思考なり、教えてやろーじゃねぇかというのが、このあたりのみなさんの本の基調にある態度だと思います。

ところが、超整理法の野口センセイのように、あきらかに経済学的思考にすぐれた人であってもしばしばリフレ派の人からみればトンでもなこという人はいっぱいいるわけです。率直にいいまして、私の周囲でも私以上にインタゲとかへの理解がない経済学者はいっぱいいるんですけど、彼らの専門領域では優秀な人が多いのです。論理的思考とか、経済学的思考というのはきちんと経済現象を観察する上で必要条件であっても、十分条件ではないのでしょう。

また、私が不思議なのは田中くんがノーベル賞云々とかの話を本のなかでやって、日本の経済学のレベルの低さを云々してますが、明らかに狭い学界の外では平均的な経済学者より影響力のある田中くんがそんな話をするのになんの得があるのかと思うのです。田中くんは日本のジャーナルでの引用回数の多い経済学者で日本の長期停滞について積極的発言をしている人が2名しかいないことを指摘してますが、そんなことで日本の経済学者のレベルの低さをいうんでなくて、「ランキングじゃ俺のほうが低いが、テメーら屑だ」とどうしていわないのか私には不思議なのです。それに限らず、リフレ派の人たちって、やっぱり既存の経済学の権威に弱腰な印象を私はもっているのです。

例によって私のかんぐりですが、リフレ派の人は経済学的思考あるいは論理的思考以外のきちんとした経済認識をささえている条件をタブー視しているのではないかと思うのです。私も含めて、教室とか、ブログとかで我々の経済学の話を人々が一定の敬意を払って聞いてくれるのは、私たちが経済学の「専門家」であるからです。われわれが経済学の専門家であるのは、学術論文を書いて、それを審査されたり、あるいは就職のときの業績審査で認められたりして、学術論文を書く能力を認められたからです。ところが、リフレ派の人々の啓蒙活動で明らかになったことは、学術論文を書く能力だけでは、現実経済のことがわかるわけではないということです。ところが、これはリフレ派の人たちを含めて、経済学者全体にとって困ったことです。幸いなことに一般庶民の大半は昔どおり、経済学者は経済のことわかっていると思っているのでしょうが、多分、リフレ派の洗礼を受けた人は、ジャーナルランキングが高くても構造改革主義者のいうことは信用しないでしょう。そういう人が増えれば、経済学者はどういう学歴があるかとか、どういうジャーナルに載ったということは、まるっきり権威がなくなるかもしれません。そうであれば、経済学だけ勉強したって経済を理解できない可能性は高いわけなのですから、また、経済学を知っている人間のいっていることが現実の経済の観察として正しいこととは限らないわけですから、経済学の価格はリフレ派のものも含めて暴落する可能性があるわけです。

だけども、このことは経済学に触れたことのない人間ならいざ知らず、経済学部の学生たちにはすでに常識であったことのように思います。経済学部においては経済学のデフレはすでに極限まですすんでいるといえるでしょう。経済学部の学生が経済学を勉強しない理由はたくさんあるでしょうが、有力な理由のひとつは経済学を勉強しても現実がわかるようになる気がしないことだと思います。そして、それは正当なことなのです。彼らが書くレポートは経済学的思考にも、論理的思考にもほど遠いものであるでしょうが、彼らだって、いやいやとはいえ、初級の経済学の授業で経済学的思考の重要さなりは耳にしているのです。これも決め付けですが、学生が経済学的思考をしない理由は経済学思考のトレーニング以前に、それをする動機自体不足しているからではないでしょうか。そして、以上の私の推測が正しければ、経済学を勉強しない、経済学的思考を身に着けないという彼らの決定は非常に経済学的にまっとうなものだといわざるをえません。私が前のエントリで道徳の授業云々といったのは、理由があって経済学をしない学生(ヘタレ左翼)に経済学的思考とか、論理的思考を説くことなのです。

私は飯田さんのような経済学的思考を伝えることを不要だというのではありません。しかし、構造改革主義者の○○さんだって*1、そのことは十分承知なはずです。我々は○○さんにあって、リフレ派の人たちにあったものが何かはっきりさせなければ、経済学部での経済学のデフレはいずれ社会全体に広がるでしょう。

それで、私はそういう現実をきちんと観察するということに関してはとっても未熟な人間ですが、現実をきちんと理解したい、まっとうに考えたいという動機に関わるとことなのだろうと思います。飯田さんに対しては釈迦に説法なんでしょうが、理論的に考える、しかも、それをぐちゃぐちゃした現実に対して行うというのは、モデルをいじくるのとちがって、かなりの意思の強さを必要とするものです。飯田さんは適切に「単一の問題を考え抜く」と書いてますが、そもそも、なんでそんなしんどいことせにゃあかんのというとこがほとんどに人にとってハードルになるのではないでしょうか。

それで、リフレ派の本以外のロジカルシンキング本もそうなんですが、ロジカルシンキングはとってもしんどくて、ここで私がやってるような「議論」でない話をえんえんする方が人間楽でいいわけです。逆にロジカルシンキングのしんどさがわかってたら、あの手の本があんなに売れるわけないとも思ったりします。そのへんのしんどい思いまでして、なんで現実のこときちんと考えんとあかんのかということが、ばっさりなくて、タダで頭のCPUの交換できますよ的な話になってしまっている。(あの、頭のよくなるなんたらもいっしょですね)タダではロジカルシンキングは身につかないわけで、そのへん、率直に言えば飯田さんも含めて、みんな道徳の先生みたいに感じるわけです。

と、すんごく、超越的な批判です。まあ、本への批判にはなっちゃいないとも思いますけど、おわびにちゃんとした書評も書くつもりですので、お許しを。(あ、もちろん、田中くんのもね)

追記

暗黒面妖さんのコメント

経済学者による啓蒙書ということであれば、(オナニー研究論文の生産は別でしょうが)経済学の理屈に基づいて経済を解説し批評・解説することが本務で、まずもってそこからはじめるということが必要なのではないですか?
エントリを拝見していると、リフレ派云々という以前の問題のような気がします。非経済学的経済認識に基づく経済学者の経済評論なんて誰も求めていないのではないですかね?そんなもんどこかのアナリストのレポート見れば載ってますしね

以上の点について、飯田さん、田中くんを含めたリフレ派の貢献を重くみたというか、文字通り、リフレ派によって私のバカが開かれた(啓蒙された)ことを前提に書いております。私の仕事など、現時点ではオナニーであることも同意いたします。だだ、現実に非経済学的経済認識に基づく、経済学者の経済評論が供給されつづけ、それを書いているのが、経済学者が書いたものであるという理由で権威をもっている現状もあるのです。

ジーン=レイブという心理学者がした実験ですが、サラリーマンなんかが、実社会で普段できている計算を教室につれてきて、答案用紙に向かってやらすと全然できなくなるそうです。経済学者のうちかなりの人は研究机に向かえば、経済学的思考ができるのに、新聞や現実をみながらは経済学的思考ができないのです。いわゆる経済学的思考でないなにかが、現実を観察するために必要なのは私には明らかに思えます。

にもかかわらず、リフレ派の人々が非経済学的経済認識が供給されつづける状況を、経済学的思考を持つトンでもがいることとしてではなく、経済学的思考の自体の欠如として語るのは、なんかなーと思うわけです。これはかんぐりといわれても仕方ないのですが、経済学全体の値下がりを心配してんじゃないのと思っちゃうのです。

そして、私は教員であるので、その問題と学生の経済学をする動機をつなげて考えてしまいます。経済学の教育において、経済学思考が現実をみることの十分条件ではなく、また、学生が経済学に向かうためには経済学思考のトレーニング以外の条件が必要なことに無自覚なことは、経済学の教室を一種の洗脳の部屋のようにしています。私はこのことには100ます計算すれば単純に学力があがるという信仰とか、動機と関係なしにロジカルシンキングを崇拝する風潮と同じ匂いを感じます。

それと、何度か書いたことですが、私はここで問題にした経済学思考以外の要素には欠けた人間です。あいつら、思考以外のなにかが足りないという感じは、自分自身に対する印象でもあるのです。

*1:お好きな名前を入れてください