未科学と疑似科学

ちゃーりーさんという方のブログに書きこんでいたら、長文になりすぎたので、こっちに書きます。poohさんの「責任の負いかた(1):Chromeplated Rat」経由で伺いました。

http://kikoutoha.livedoor.biz/archives/54438254.html

しかも解剖学的という時点でこの話は終わっています。【気は生きているものに流れている】という考えをいきなり無視しています。

解剖学って死んだものを解剖している限り永遠に答えが出ません。科学には永遠に認められないのです。科学が与えてくれるものは安心だけです。

私はちゃーりーさんの文章を読んで、ひとりひとりの患者さん(?)を大事にしている人なのだろうと想像しました。勝手なかんぐりかもしれませんが、ちゃーりーさんが「気は生きているものに流れている」という言葉で、科学と気功を対置していおうとしていることは、一人一人の体は違い、また、同じひとでも時と場合によって変っていくことなのだろうと理解しました。(まちがってたらごめんなさい)

狭い意味での科学の対象というのは基本的に再現性のある現象です。したがって、個々人にとって、また、時と場所によって変化するたった一回きりのことには科学的知識は助けにはなるでしょうが、完全な答えをだすことはむずかしいでしょう。

そうした一回きりの事柄を大事にすることは非常に困難なことだし、忍耐も必要ですし、それをちゃーりーさんがそれを乗り越えてそのことを大事にしようとするのであればそれ自体は尊敬に値することだとおもいます。

しかし、逆に我々の知識や経験はあまりにもかたよっています。科学というか、集団での経験のつみかさねとは、その偏りを正すものです。たとえば、ホメオパシーが偽薬を越える効果ないことを示す科学的実験は何回もくりかえされています。それによって、すくなくともホメオパシー効き目にかんしてはがイタイノイタイノトンデケとあんまりかわらないことがほぼわかっています。気功についてそのような科学的研究が十分になされているかどうかわかりませんが、少くとも、十分な科学的研究がなされた後ならば、その経験は無視することはできないでしょう。

近代医学であっても、気功であっても、その対象は同じ人間の体ですから、客観的な現実が存在する限り、行動以前に必要なことは現実を知ることだと思います。完全に現実を理解することはできませんので、我々は試行錯誤して現実を知る必要があります。少くとも私は科学とは再現性のある確実性の高い現象に対する試行錯誤の試みと考えています。そうした試みをすべて否定することは、自分の経験の再現性のある側面に目をつぶることにしかならないと思います。

だから、科学でないものも人は疑似科学にしようとします。しかし、僕は気功なんて疑似科学にするつもりはないです。科学とはデータをとっていくことです。データは安心を与えてくれるでしょう。でも、僕の体はデータでできていません。僕の病気はデータで生じません。

約60%の人が生活習慣病で死んでいってます。あなたははたして、60%の確率で生活習慣病で死ぬのでしょうか?

違います。結果があって、原因がある。

私はそれに立ち向かうために、
運動で 食事で ヨガで 
そして、気功で健康を作っています。

そこに、科学も疑似科学も捏造もありません。
必要なのはデータよりも行動です。

私が心配なのは、この発言です。もちろんデータだけでは、なにもできないことは確かですが、人間のもっているすべての価値ある知識はすべて、なにかの意味で経験にもとづいています。つまり、データにもとづいているのです。私は気功の歴史は全然知りませんが、気功についても、先人のさまざまな試行錯誤のつみかさねで、現在の気功の体系ができているのではないでしょうか。また、気功の専門家としてのちゃーりーさんの腕もあなた自身の経験というデータのうらづけがあるはずだと思うのですが。

もうひとついいたいことは、科学でないもがすべて疑似科学ではありません。科学にとって、世界に対する意見は三っつに分類できます。科学的見解と、疑似科学的(非科学的)見解と、未科学的見解です。ちゃーりーさんは科学的見解以外すべて疑似科学と考えておられるようですが、そうではありません。

科学は試行錯誤の繰り返しでしかありません。われわれが科学的知識と呼んでいるものは十分な試行錯誤ができ、確実性をもって予見ができるようになった対象についての知識です。したがって、十分に試行錯誤がなされていない対象は科学的な結論はくだせません。そうした事柄についての意見は科学にとって、これからの科学の検討の対象になるのであり、それが従来の科学の立場からしてトンデモないものであっても、その意見を否定するのは、文字どおり、非科学的な態度です。そうした対象に対しての科学者の得たデータは十分な確かさを未だ得ていないので科学的知識とはいえません。したがって、科学で否定できないのです。だから、科学的知識がまだない対象についての議論は疑似科学というより、未だ科学になっていないという意味で未科学とよばれるべきです。未科学の領域では、科学者は科学者以外の人達に知識の優位性をほこることはできません。ちゃーりーさんがあげた飛行機の例は疑似科学ではなく、科学が十分に解明していないという意味で未科学なのです。

一方で、科学的に十分調査され、確実性のある知識がえられているにもかかわらず、それを否定する見解があったとしましょう。科学者が疑似科学として批判をするのはそのような見解に対してです。

人間の体というものが、というより、世界が科学によって完全に解明されることはありません。したがって、未科学の領域というのはずっと殘ります。しかし、科学的解明のすんだ領域もすこしづつながら増えていくのです。

とりわけ、ちゃーりーさんは人のからだとつきあう職業ですから、その未科学の領域につきあわざるをえないのはよくわかります。しかし、すでにわかっていることも、わかっていないこともごちゃごちゃにすることは卒直に現実を直視する姿勢とはいえないと思います。この点にかんしてちゃーりーさんの意見には正直非常に危ないものを感じます。

もう一度くりかえしますが、近代的な医学であれ、気功であれ、対象は人間の体という現実なのです。そのためには現実自身への理解を深めることが必要なのです。たしかに「データ」だけでは、なにもできませんが、個人の経験もふくめたデータからしか我々は世界を認識できないのです。

長々と書いてすみません。ご検討いただければうれしいです。