ちょっとだけ、格差問題について

すぐ上のエントリでも他人からの注意力について書いたのだが、赤木智弘氏のめぐる主にブログ上の議論で違和感を感じるのは、私には赤木さんの議論の中心は「俺達のことも見ろ、俺達の声を聞け」ということのように思うのだが、そこをスルーした議論が多いように感じる。

ちょっと、横道にそれるようだが、私はワーキングプアーなる現象は以前からあったのだろうと想像している。私は日本的雇用慣行のもっとも際立った特質のひとつは同年齢同士の社員間の競争によって、業績を評価することだと思っている。日本の企業では、業績は基本的には同じ学歴の同じ年に就職した「同期」との差によって評価される。集団の同質性がきわだつ状況をつくっておいて、差が見えやすい状況をつくりだしたのちに成果によって、選別をおこなっている。

日本の社会では、すくなくとも、サラリーマンの間では、就職ののちで大学にはいり直したりすることも、あるいは、平均的なひとびととちがうキャリアを形成して雇用されることも困難になっている。同質的な集団の中で業績を評価するシステムでは、彼らを評価する場、彼らを競争させる場が存在しないからだ。

平均とはちがったキャリアをつもうとした人々の多くは、よほどの成果をあげない限り平均的な労働市場からは排除されたと想像できる。また、競争は敗者がいるから意味があるのであり、同質的な集団での競争での敗者も、会社をやめなければならないことになったであろう。そして、いったん、敗者になれば、このような社会ではふたたび競争に参加することは極めて困難である。

したがって、この雇用システムは多くの競争にさえ参加できない人間を必然的に生み出す。彼らの一定部分が現在ワーキングプアとよばれるような状況におちいる可能性はかなり大きいのではないか。

実は彼ら競争の敗者と赤木さんにはきわだったちがいがある。赤木さんはおそらく競争にすら参加できなかった。しかし、彼らは競争に参加してから敗者となった。おそらく彼らの状況は赤木さん同様苦しいものであったが、彼らはそれを自分自身の能力の責任とされてきた。赤木さんは、就職氷河期によって競争の機会さえ奪われたから、まだしも、発言を聞いてもらえる側面はないだろうか。

赤木さん以前に我々は我々の社会の敗者に耳に傾けてこなかった。競争に敗者が必然であり、この競争が我々の経済を支えてきたのであれば、彼等も経済を支えてきたのであり、勝者同様、彼らも経済の不可欠な歯車の一つである。

つぎのように言ってしまうのは議論を過度に一般化してしまうようで躊躇があるのだが、どんな社会にも最低辺は存在する。いくら技術が進歩して、貧困をなくすことが可能になったとして*1、すべての人間を完全に平等にすることはできない。しかし、最低辺に注意を向けるかどうかは、社会が選択できる問題である。私は赤木さんにその選択を迫られているように感じる。

*1:現に可能だ