生について

前回、よっぱらって変なことを書いたけど、あそこで書いたことは、自分としては結構まじめに考えたいことだ。

構造主義的な立場の本を、多少注意深くよめば、構造がどうして生じるか、あるいは、個人が構造の一つのはぐるまとして動くような主体となるかといった議論をするとき、個人の生としかいいあらわせない要因がからむことがわかる。ソシュールのラングとパロールを引くまでもなく、多くの主体からなる構造は個々の主体の行動によってささえられる。構造の分析自体は、その主体の行動の動機は説明できない。確かに、個々の主体が構造の歯車の一つとして行動することを前提としての構造の変動、生成、維持を議論する場合には、このような生という要因はとりあえず無視できる場合が多い。しかし、個人がどうして、構造の中の一つの契機として、つまり、主体として構造に参加するかについて考える場合に個人をそのような行動に導くものを考えざるをえない。

生がなんであるかという議論は難しいが、一ついえることは我々はよりよい生と、よりよくない生を区別していることである。また、自分の生というのは個人にとって何よりも大事であるということである。多くの自殺は、よりよい生を生きることへの絶望が引き起こすと考えていいだろう。そして、経済的厚生とか、基本的人権とか、社会的なアイデンティティといったものは、本来的には、よりよい生を得るための道具なのだろう。

よりよい生をどう自分が実現できるかは分らない。とりわけ、どのような生をよい生かということは個々人が判断する問題である。だけども、すくなくとも、よりよくない生が強制される状況、あるいは、よりよい生が尊重されていない状況、よりよい生を目指すことがないがしろにされる状況というのは、かなり明確にわかるのではないか。

注意だが、よりより生は、他人へ強制するとき、それは簡単にファシズムになる。これは個人主義的側面をニーチェからとりはらうことで、その歪曲されたニーチェナチスを支える思想になってしまうことからも分るだろう。*1すくなくとも、大人に対しては、自らよりよくない生を送っているように見える人間はそっとしておき、よりよくない生が強いられる状況を極力少なくすることが必要なのだと思う。

また、生存はよりよい生の必要条件なのだから、個人のよりよい生を尊重する立場は、優生学やジェノサイドには結びつかないはずである。

赤木智弘氏の提起したことについて、それを彼の待遇の問題として、雇用の問題としてとらえられることが多い。もちろん、それらの事柄と関係が深いが、基本的には、今の社会で若者のよりよい生が尊重されないことが問題なのではないかと思う。現在の不満から戦争を待望するのは、人権思想などには抵触するが、自分のよりよい生が社会全体の幸福よりも大事だと考えることは、いい、悪い以前に、誰でもそう思うはずのことである。

また、学校関係者として書くのだが、少子化への対応において、教育費の切り捨てばかりいわれるのは、どうだろうか。経済学的に見ても、物に対して人間が希少になるのだから、個々の教育水準は押しあげたほうが効率的であるという点は、いまはおいておく。*2子供にとって、生きる場そのものである教育の場が、費用の問題と、陳腐な右翼思想に洗脳する観点でばかり語られるのは、子供の生をないがしろにしている。

*1:この点については、カール・ポランニーの『経済の文明史』を参照

*2:経団連や大蔵省は、医療問題への対応を含めて、全体として嘘つきであるか、馬鹿であるかのいずれかだろうと感じる。