『「はだかの王様」の経済学』についての後出しジャンケン

「はだかの王様」の経済学

「はだかの王様」の経済学

ブログ周辺では一段落ついた感がある松尾匡先輩の著書についてですが、せっかく、送っていただいているのに、まだ読めていません。ごめんなさい。

『はだかの王様の経済学』は戦慄すべき本である(山形浩生氏)

とりあえず、山形氏の書評であきらかに、松尾さんを誤読している*1箇所があるので、指摘します。なぜか、松尾さんが反論の中で指摘していないように思うのですが、松尾さんのいう疎外は、本質が実現していないことをいっているのではありません。それどころか、松尾さんの「協働による全体性」、「公共性のある市民」、「社会全体の助け合いのなかでの労働」といった本質はすでに実現されているのです。ある意味で、我々がみじめになるのは、抑圧以前にこの本質がすでに実現されている、つまり、「協働による全体性」、「公共性のある市民」、「社会全体の助け合いのなかでの労働」といった我々の本質の発露によって、社会がなりたっていることを、身をもって実感できないことにあることになるでしょう。それらの本質の外化、あるいは物象化したものとしての神、国家、金におうかがいを立てないと、自分の本質を実感できない状態が疎外の必要条件といえます。

松尾さんのいう本質がそういうものであれば、「松尾の疎外の図式は、欲望とか欲求とかいうのをこむずかしく言い換えただけだ」というのは誤読です。また、「疎外の有無を決定づけるのは「本質」とか「本来の姿」との乖離だ」というのも誤読になります。本質はすでに実現しているのですから、本質との乖離はありえません。松尾さんのいう疎外は、人間の本質の働きが、人間の意思と関係のない法則にしたがってしまうことをいっているので、人間のありかたと乖離しているものは、そもそも本質ではありません。

このことをふまえると山形さんが気持悪がっているコントロールの意味も明確になるのではと思います。疎外がない状態は、本質が、盲目的な社会法則ではなく、意識的な人間の意思にしたがう状態といえます。そこにおいても、個人の意思の齟齬なり、マクロ的な政策の失敗はきっとあるでしょう。ただ、疎外がある状態での失敗は、意識の関与であるコントロール自体ができない状態での盲目的な社会法則による天災のようなもので、疎外のない状態での失敗は意識の関与としてのコントロールの失敗なのです。。

「その疎外と葛藤というのはそんなにカンタンに見分けがつくんだろうか」つくのです。すでに実現しているものに苦しんでいるのが、疎外で、いまだ実現しないものに苦しんでいるのが山形さんのいう葛藤です。

ただ、松尾さんの議論*2で問題なのは、神や貨幣や国家のないところで、人間の本質はあるのかということです。あるいは、人類の歴史のなかで育ってきた本質を神や貨幣や国家へ外化することなしに、そこなわずにしておくためにはどうしたらいいかという問題がのこります。ただ、松尾さんのいいたいことは、「本質をもった人間なのに、神さまやお金や国家の顔色うかがって生きるのって苦しいでしょ。なんだかんだいって、そういうのやでしょ」ということだと思うのです。そこに立てば、とりあえず、なんかせにゃあかんなという気持になるように思います。私には、松尾さんは、いっしょになんとかしようとあがいてみようよと誘っているように感じます。それで何百回も失敗したとしたら、稲葉さんのいう廣松物象化論の「悟り」*3にいくのかもしれませんが。

*1:私はまだ読んでいないんですが

*2:くりかえしになりますが、まだ読んでないんですが

*3:「『はだかの王様の経済学』は戦慄すべき本である」メモ - shinichiroinaba's blog