ついでに執筆中の松尾疎外論についての論文から

多分、『マルクスの使いみち』での塩沢由典批判に関連すると思います。実際、そこでの松尾匡さんの発言も念頭においています。年末のブログでの松尾さんとの議論を論文のネタにしようとしていて、その下書きのその一節です。

松尾は彼の代表作のひとつ、『はだかの王様の経済学』をふくめ、ひんぱんに進化ゲーム理論の有用性と、それが疎外論と一致していることを強調している。しかし、私は松尾のそれらの発言は結果的に松尾疎外論を誤解させる原因になっていると思う。

松尾は以下の指摘をうけても、部分的な有用性があることや、トイモデルとしての有用性から、従来の進化ゲームによる疎外論の説明を擁護するのではないかと予想する。というのは、松尾は一般均衡論やマルクスのいくつかの経済理論について、そのような形の擁護を行なっているからである。しかし、あらかじめ、予想される反論を批判しておけば、それは現状分析やある種の理論的な検討において、現実のある特徴をきわだたせる必要がある場合においてはそのとおりであっても、疎外論のような基礎理論を概念的に説明する場面では、そのような擁護はできない。なぜならば、そのような場面では、重要な理論の構成要素がそろっている状態が提示されるべきであるからである。具体的には、松尾疎外論は従来の進化ゲームではあつかえない要素を含んでいる。疎外論の説明で進化ゲームがつかわれるとき、松尾疎外論において重要な側面のいくつかが見えなくなってしまう。

勝手に想像上の松尾さんに反批判されるために登場ねがって大変恐縮です。

つづきでは、松尾疎外論の記述は進化ゲーム理論では十分におさまらず、マルチエージェントモデルで記述するのが、ふさわしいことを指摘しています。

この引用部分よりも前の部分では、松尾さんの主張にもかかわらず、一般的な方法論的個人主義との比較では松尾疎外論はぜんぜんラジカルで、すばらしく異端的であり、これがオバカな方法論的個人主義と一緒なわけないだろう、そんなこといって松尾さんバカにしてんのだれ、あ、松尾さんか。と、絶賛放送中なのです。ですが、スポンサーの意向で放送禁止にならないか心配です。というのは、私としては、松尾疎外論自体はべたほめなのですが、その観点から松尾さん自身の松尾疎外論の説明をこきおろす形になり、松尾さんが喜ぶのか怒るのかいまだに判断がつきません。

たぶん、これは塩沢批判というか、塩沢さんの批判に対しての新古典派擁護でよくありがちなパターンと類似の論理構造であると思います。理論に不可欠なメカニズムの欠如を指摘しているとき、そんなことはわかっている近似だ、単純化だという反論はよくあります。それは、モデルの応用の場面なら、吉原さんがいわれるようにモデルの目的から正当化できるケースはあると思います。しかし、経済システムにおける不可欠な要素、疎外論に不可欠な要素を説明する場面では、そのような単純化は正当化できないと思います。

システムを記述するのに本質的な要素をすべてとりこんだモデルは振舞いの解析や観察がとても難しくなる場合があります。しかし、原理的な場面では振舞いの観察をする前に、モデルの構成要素や概念を確定しなければなりません。

松尾さんと石塚良次さんには、近く送るつもりでおりますので、よろしくお願いします。