吉原直毅さんへの返答

吉原直毅さんから頂いたコメントが長くなりましたので、記事にしました。

参照:
http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20120330/p1 中の
「懇親会で吉田雅明さんと吉原直毅さんとお話しできたこと」

http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20120330#c の吉原さんの発言と返答

吉原さん

まず、確認したいことは、前のコメントで私が想定した「大部分の研究者」に吉原さんはあてはまっていないことです。

もちろん、私はその問題が全く無意味だとは思いません。例えば、社会主義計画経済論争のときの様に現に存在しない新たな経済システムをゼロから設計しようという様な、政策論的論脈では合理的経済人による最大化問題を設定したモデルの解で望ましい政策問題が全て解決できるという態度でいる事は問題孕みです。また、計算量の限界を考慮した限定合理性問題を考察する事にも意味はあると思っています。

新古典派的な一般均衡理論の現段階での成果は、資本主義経済システムの本質を捉えるものとしてはまだまだ不十分ではないかと思っています。その理由の一部は、モデルの設定の仕方自体に関わっています。

基本的には、現状の新古典派経済学によって、資本主義経済システムが完全に解明できているわけではないということは共通認識なのだと思います。ゆえに、資本主義経済システムの解明のため、基礎理論の発展が必要であることも共通認識だろうと思います。

以下の点についても、吉原さんのおっしゃるとおりです。

大坂さんにとっての(あるいは大坂さんの理解する塩澤さんの)一般均衡理論の一番の問題点は、計算量の問題と制約下の目的最大化主体の想定の問題という事でしょうか?

ただ、もう一つ重要な点として、一般均衡理論が経済システム状態を常に均衡ととらえることです。実はこのことを正面からうけとめることのほうが、ほとんどの経済理論にとって深刻です。つまり、これは現実の経済は同時的な連立方程式の解としては厳密にはあらわせないことを認めることになるからです。おそらく、唯一認められる例外は、単調な再生産が持続している状態だけだろうと思われます。(塩沢さんの再生産理論にかかわる評価はこれと関係します。)したがって、一般均衡理論は、もちろんのこと、IS-LMポストケインジアンのモデルのかなりの部分も、現実への適用可能性を考え直す可能性がでてくるはずです。

この部分に関しても、賛同されるかは別として、問題意識としては理解していただけるものと想像します。

対立点のひとつは、一般均衡理論が「概念的な再建であり、現存する国民経済の状態の根底からの再構成」として適切かという点にあると思います。

逆に御聞きしたいのは、一般均衡理論であきらかになる「経済循環の構造とその再生産メカニズム」とは何かということです。吉原さんも経済学の先生ですので、日頃から学部生に経済学を教えておられると思いますが、学部生の素朴な疑問というのは、すごくよく、一般均衡理論の穴をついてくると思います。ひとつは一般均衡理論において、お店が値札をつけているのではないということ、均衡の外にはないので、在庫など考えなくていいこと、均衡の外での取引を考えると、とたんに何がなんだかわからなくなること。多分、ほとんどの学部生向の教科書はこの点を触れないでいますが、ちょっと勘がいい学生はちゃんとついてきますよね。「値付けに失敗して、夕方にタイムサービスで地物のいわしを半額で売る近所のスーパー」の話さえ、一般均衡理論なり、需要供給分析の対象外の話です。そのような状況での調整メカニズムはワルラスの模索過程とまるきり異るものです。

以上のことは、吉原さんには釈迦と説法だと思います。問題はこのような一般均衡理論であつかえない部分を市場の非本質的な部分として切り離すことが妥当かということが問題だろうと思います。一般均衡理論の特徴は均衡の外での取引を禁止していることです。吉原さんも御存知のように、ワルラスの模索過程において、需給の不一致において取引はなされません。ところが、現実の経済では需給の不一致は常に存在していて、それに経済主体もなんらかの対応をしています。そのため、たとえばタイムサービスで地物のいわしを半額で売ったり、企業は物流面での工夫をしたり、その方面での設備投資をしたりしています。このような側面も市場の本質的な側面といえると思います。原理的な部分でも、これらのことを考慮したモデルを考えることは一定の意味があることは認めていただけるように思います。

吉原さんは、そのような現状の経済理論のカバーしてない問題にとくくむ努力は一定の評価はしてくださるのではと想像します。むしろ、吉原さんは直接ふれていませんが、おそらく、アンチ塩沢の立場の人のほとんどがカチンとくるのは、塩沢さんが均衡を認識論的障害と見做していることだと思います。それは、私がふれたような、市場の取引に必然的にともなうだろう種々の側面を市場が均衡を達成していると見なすとき、理論の中から消えてしまうからです。このことは合理性、計算量の問題とも関わります。このような側面を考慮にいれると長期的な平均としても均衡状態を経済システムの近似として用いることは、少なくともかなりの注意が必要だろうというのが私の判断です。

ただ、私は一般均衡理論以外のIS-LMなどもふくめた、広い意味での均衡モデルすべてを破棄すべきか、それを認識論的障害の所産でかだづけていいかに関しては、賛成の方向にも、反対の方向にもかなり躊躇をもっています。これは先日ごいっしょしたとき、私が吉田雅明さんにお尋ねしていたこととかかわるのですが、経済のような多数の構成要素があるシステムを分析する際、連立方程式システムとして近似しようとすることは、かなり自然なことです。それは暗黙であれ均衡モデルを採用することを意味します。しかし、それは経済観の問題というより、複雑な経済システムへの人間の認識能力の限界にかかわる部分があるのではと感じています。

単に否定するのではなく、そうしたアプローチを限界を認識しながらきちんと評価することができないかと考えています。たとえば、現実には連立方程式にはおさまりのつかないシステムの長期平均やある時点でのスナップショットを連立方程式と見做すことにともなう誤差やバイアスのような議論は、あってもいいように思っています。一般均衡理論に関していえば、リアルな経済を一般均衡理論でとらえることで生じる誤差やバイアスを、均衡のないモデルの側から検証することです。裁判であれば、このような問題の立証責任は均衡モデルをつかう側にあるのですが、立証能力があるのは反均衡論者だと思います。

まだ、きちんと説明できる自信がないのですが、経済学において均衡をすてるということは、モデルと現実の経済システムの関係を再考せざるをえなくなると考えています。また、『マルクスのつかい道』で稲葉振一郎さんが言及しているクルーグマンの「文字通り不均衡を観察するのは人智にあまる」という発言は事実としてそのとおりだと思います。ただ、均衡の中から経済をながめている限り、均衡理論のもたらすバイアス自体評価できません。課題はやまづみでしょうが、とてもよい教科書『進化経済学基礎』が出版されるまでに、塩沢さんを継承した方向での成果が蓄積されていますし、私もヘタレ・インテリはそろそろやめるころだなと感じはじめています*1

*1:吉原さんと直接関係ないのと、くやしいので脚注にしときますが、『進化経済学基礎』を見て、私がヘタレ・インテリだった10数年間での、あの本の執筆者たちとのギャップを感じてメゲました。