経済学の啓蒙活動について

えー、稲葉さんのブログにコメントを書いていたのですが、あんまり長くなったので、こっちに書きます。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20061203#c1165412523
# tanakahidetomi 『僕は「役割分担」の話なんかしてませんが? 
そのまま直接、『使いみち』の吉原さんの書かれた話こそ「「理念」なくしてはいきていけない人」の一例だといっているわけです。その点を曖昧にしたまま、つまり「現実」とのすり合わせもないままかかれているのが『使いみち』(吉原パート)だと思うと書いたのです。まさに『>「プロの経済学者がサボってるからだよ」でしょうし、そのサボりゆえに、あの本の吉原さんの書かれたところはローマーらの立論をマクロ経済とも関係なければ、現実の日本の課題とも乖離している、と読めますので、稲葉さんご自身の書かれたことは、ローマーやセン以上に吉原さんにあてはまるだろう=山形さんの書き方は中味の点(何勘違いして勘違い学者がでてきてんだよ、それよりもちったあ、役立つモデルでもだせ、こちとらプロ様のご怠慢の代わりにやむをえず、いや喜喜としてお役立ちあそばしてるんだよ、ゴラァ)で正しい、というのが僕の意見です。


てめーのこと貨幣バカと呼ぼうか?

田中さんのコメントを読むと野口ゆきお(変換できん。ごめん)問題を思い出します。率直にいって、バブルがはじけたとき、私は確かに野口氏とおんなじようなミクロバカ的発想をしていました。リフレ派のみなさんの啓蒙活動によって、私は文字どおりバカを開かれたわけです。あのころは80、90年代のゲーム論の発展にのっかって、私をふくめて経済学者が貨幣など忘れて、IS-LMなど忘却の彼方でした。

もちろん、ミクロの企業分析やっていても判断をあやまらなかった方もいましたが、私の印象ではあんまりミクロ方面にのれなかった人達から正しいことをいい始めた印象があります。貨幣バカが正しいこという局面もあれば、貨幣バカがただのバカになる局面もあるのだと思います。

それと田中さんのいっている現実ってなんでしょう。役に立つモデルってなんでしょう。そのへんとってもいいかげんにしかみえないんですけど。ローマーやセンはようわからんけど、(吉原さんのとこちゃんとよめてません。ごめん)現実に関係ないことしようとしている経済学者なんて、まあ、まともなのならいないわけで、田中さんの思いもしないことを日本の課題と思っている人がいたって不思議でない。さっきもいったように、田中さんたちにバカをひらかれた私としては田中さんのいう「現実の問題」が現実の問題であることはもちろん認めますが、それだけが現実の問題ですか。

あー、かちんときたんで、プラスドライバー以上に失礼になってるけど(稲葉さんにはもっと失礼なこと書いてるけど)、稲葉さんの啓蒙の話に関してだけど、経済学の教科書って経済学すごいすごいといいすぎていませんかね。それを理論で導けることと、経験でわかっていることと、あと、経済学者自身の偏見をごっちゃにしてる本(日本語の本のほうがひどい)が多いんで、なんか初級のテキストって、道徳の教科書になっているのが多いんじゃないでしょうか。それをインプットされた状態で経済学勉強しなさいっていわれると、日教組の教員に「ひとりはみんなのために」なんていわれた気分になる。もう、そうなっている人が稲葉大先生が啓蒙しようとすればするほど、経済学から離れてくようにおもうんですけど。そういう意味では「あんたはマルクスケインズ=カレツキ折衷の不完全競争市場の不均衡分析の枠組みにとどまっている」といわれても(マルクスも、ケインズもカレツキも好きなんですけど)、はぁーというしかないじゃないでしょうか。

あー、それとリフレ派のひとの本って、論理的思考がどうとか、経済学的思考がどうとかって、道徳のテキストっぽいこといってるのものすごーく多いとおもうんですけど。喧嘩売る相手ふやしそうですけど、小野野口旭さんの本ってそういうの多くないですか。あー、それに啓蒙を問題にする時点でもう十分に道徳の先生。

自分としては、経済学内部の対立あおるようなのは、あんまり生産的でなくて、マルクスだろうが、新古典派だろうが、リフレ派だろうが、経済学共通の課題があって、それぞれがちがったアプローチをしていることを強調するほうが生産的だと思います。発展段階の低いひとにも、あんたらの課題は新古典派ではこういうふうにかんがえてんだよってとか、あんたらの道具じゃあんたらのこんな問題むづかしいでしょうっていうほうが、お話がしやすいと思うんですけど。

それと私自身は経済学なんて、リカード+αのバリエーションでしかないとおもっているんで*1、経済学の進歩なんて幻想で、経済思想の発展段階みたいなのいう自体がなんか嘘くさくも感じるのです。

追記

読みかえすと啓蒙についてあまりになげやりなので、提案。経験的にわかっている傾向、経済モデルでいえること、経済学者の認知バイアスのようなもの、経済学者個人の偏見(見解)をきちっと区別して経済学者は話しましょう。どうもこういうことちゃんと区別する習慣が経済学者というかいわゆる知識人(死語?)にはとっても希薄です。そういうのごちゃごちゃにして素人さんに不信感いだかせて、あー経済学者って、冷血合理主義者のグローバルなイデオロギーなどという不信感をうえつけちゃってるわけです。これは経済学者のほうがバカをひらかんといけんのだが、あまりにも自分の学説とアイデンティティーを同一化しちゃってる人が多い。というか私もそうだけど。まあ、このあたり、大学の教員全体が世間から白い目でみられてるかもしれない。それでヘタレ文系の近親憎悪をますます買ったりして。まあ、他人を啓蒙するより、自分のバカをひらきましょうってことですかね。(あー、これ自分にいってんだよ。自分に)

さらに追記

田中先生のファンのみなさま。親切にも私のリハビリのために削除していただいたコメントを復活させます。下のほうを御覧ください。

さて、価格がゼロのまわりで正規分布する田中秀臣さま*2にも要点がわかるように書きます。

そもそも吉原さんの問題に私が口だししたのが大人気なかったのですが、借りにも経済学で食っているひとに対して

つまり「現実」とのすり合わせもないままかかれているのが『使いみち』(吉原パート)だと思うと書いたのです。

というのはいかがなものなのでしょう。これ、「現実」とかあいまいにしたままいうんじゃ、私のように瞬間湯沸機になるかどうかは別として、ほとんど名誉毀損に近い発言だと思うのですが。

それとこれ山形さんの引用でなく、あなたの意見でしょ。山形さんと親しいのかもしれませんが、他人だしにしていいたい放題もたいがいにしてください。

何勘違いして勘違い学者がでてきてんだよ、それよりもちったあ、役立つモデルでもだせ、こちとらプロ様のご怠慢の代わりにやむをえず、いや喜喜としてお役立ちあそばしてるんだよ、ゴラァ

お察しのように私はあなたの高尚な貨幣数量説は理解しておりません。だから、いいなおします。貨幣はぬいて、バカと呼ばせていただいてよろしいでしょうか。貨幣数量説はバカとキチガイを区別する本当にいいフィルターですね。

それと、私のような失礼な人間がいうのはなんですが、こんなコメント書いてるひまがあったら、吉原さんにおわびのメールを書くのをぜひともお薦めします。私は「研究者」でないつもりですから、あなたとどうなってもいいんですが、私は吉原さんは将来経済学会の会長になってもおかしくない方だと思っています。処世術としてもそうなさったほうがいいんじゃないですか。もし、すでにしておられるのでしたら、ごめんなさいですが。

最後にもし吉原さんがこれを見られていたら、お詫び申し上げます。非常におせっかいなことをしてしまいました。かつ、個人的感情を吉原さんを巻き込む形で発散させてしまったこと、申し訳ありません。

tanakahidetomi
『な、あんたのように「貨幣バカ」と理由もなく(理由もかけず)叫ぶ人をあぶりだすフィルターの役割もするのが貨幣数量説の便利なところでさ。』2006/12/07 10:07

tanakahidetomi
『な、あんたのように「貨幣バカ」と理由もなく(理由もかけず)叫ぶ人をあぶりだすフィルターの役割もするのが貨幣数量説の便利なところでさ。貨幣数量説の二分法が実は何と何を二分しているかよくわかる事例がまたひとつw』2006/12/07 10:15

tanakahidetomi
『コメント書いたけどご自分で痴呆と書かれているので
リハビリ専念したほうがよさげみたいだから
刺激与えて病状悪化はさすがに気の毒。で、削除wz』
2006/12/07 10:17

野口旭さんのお名前を勘違いし小野旭さんのお名前を書いてしまっていました。ご両名にお詫び申し上げます。指摘いただいた濱口さん、ありがとうございました。

*1:広い意味での均衡モデルは時間をどうつぶすかの違いでしかないでしょ。

*2:御本人のみおわかりと思います。