商人道まだ読んでませんが

http://cruel.org/other/matsuo/merchantsandsamurai.html

はっきり山形氏は松尾さんの議論をまったく理解していないように思うのだが、なんとなく、山形さんの気持もわかるような気がする。私自身もそうだったのだが、松尾さんの話を生半可に聞くと、「コイツ、カンボジア行ったらポルポトなるやろ」とか「スターリン大好きなんとちゃうか」と思ってしまう。(私もそう思ってましたから。はい)はっきりいって山形さんの指摘している内容以前のことをこれから書くのだが、内容以前の誤解で松尾さんの議論が全然みえなくなっているように思う。

誤解の原因のひとつは、次のことが理解されにくいことだと思う。松尾さんがいう、社会主義とか、アソシエーションとか、今回のように商人道などの規範めいて見えることは、実は松尾さんにとって、規範ではない。それは、もっと上位の倫理の観点から見て、社会主義なりアソシエーションなり商人道なりの方向が戦略として合理的だといいたいのだろうと思う。

それでは松尾さんにとっての上位の倫理とは何かといえば、それは疎外のない状態をめざすことだ。山形さんは、この松尾さんの疎外を完璧に誤解しているのだが、疎外というのは、すでに自分の手にある社会における交通なり、協働なり、愛なりといったものが、お金とか、国家とか、神とかにもたらされていると認識され、そのことが、人間の意識的な選択を邪魔している状況をいう。*1こういうと難しそうだが、松尾さんのいう「はあはあいってる感性的個人」の声に耳をすますことが疎外をのりこえることの第一歩である。すでに我々の社会は我々自身の手で協働を実現しているのに、それを実現するのはお金だと勘違いする。協働を担っているのが自分たちであることを忘れて、お金が協働の成果であるモノを生みだしているかのように、勘違いをする。そのことで「お金ほしい、お金ほしい、はあはあ、はあはあ」としんどくなってしまう。(神戸大学の○○係のすてきなお姉さんたちが、私や松尾さんのようなうだつのあがらん大学院生にまったく興味を示さないから、われわれが「はあはあ」いっていたのは疎外ではなく、山形さんのいうところの葛藤である。その当時(もちろん今も)、すてきなお姉さんたちは私や松尾さんの手に届かなかったからである。だけども、松尾さんはこのようなときも、「はあはあ」いう感性を全身で肯定していた。)だから、松尾さんが商人道をすすめるのは、「おたがいに、はあはあしんどいですね。まるでポルポトの国にいるみたいですね。商人道だともっと楽しく生きれますよ」と言っているだと思う。

ところが、おそらく多くの腐ったマルクス主義者のイメージもあって、マルクス主義として主張される松尾さんの商人道は、「商人道を実践しないやつは収容所行き」という主張と誤解されやすい。そのように商人道がうけとられるなら、松尾さんはそれこそ疎外だというにちがいない。

最後に、大学院時代に私と松尾さんで、私が武士道を松尾さんが商人道を主張する議論を何回かしていたように思う。山形さんの批判と松尾さんの反論しか読んでいないが、経済学的には武士道は関係特殊的な資産を重視する立場で、商人道は交換の利益を重視する立場と見てよいのではないかと思う。また、技術進歩の側面からは、イノベーションの動機は武士道にかかわり、イノベーションの普及は商人道にかかわるといってもいいと思う。*2ここでは、詳細は書かないが、若年層の雇用の不安定の問題は、商人道のゆきすぎなり、山形さんや田中くんが指摘するようなパイの縮小による武士道を実行することの困難さにあると見ることは可能なようにも思う。卒直に松尾さんは商人道よりで、私は武士道よりのバイアスがあるのを感じる。ただ、武士道バイアスの私としては、企業の組織的な側面を軽視する傾向は、企業組織の分析の発展にもかかわらず強く感じるので、僭越ないいかただが、松尾さんも含めて多くの経済学者は武士道をもっと学ぶべきだと思う。(と、大学院時代の論争を蒸しかえしたりする。)


商人道ノスヽメ

商人道ノスヽメ

*1:http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20080701/p1 を参照。

*2:ローマーのR&Dのモデルとか、『イノベーションのジレンマ』、マルクスの特別剰余価値も武士道の話だ。