ホメオパシーへの需要を「合法化」するために

1年ぶりの投稿がホメオパシーかよと自分でもおもっているのですが、ホメオパシー嫁とくらしているので他人ごとではありません。

いきなりドラッカーの引用をします。

消費者運動が企業に要求しているものこそ、まさにマーケティングである。それは企業に対し、顧客の欲求、現実、価値からスタートせよと要求する。企業の目的は欲求の満足であると定義せよと要求する。収入の基盤を顧客への貢献に置けと要求する。マーケティングが長い間説かれてきたにもかかわらず、消費者運動が強力な大衆運動として出てきたということは、マーケティングが実践されてこなかったということである。消費者運動マーケティングにとって恥である。

ドラッカー『マネジメント(エッセンシャル版)』p.16

なぜ、多くの人々がホメオパシーに魅かれるのか、この文章はあきらかにしているように私は感じます。企業を医療、消費者運動ホメオパシーにおきかえれば、すっきりしませんか。医療ネグレクトをふくめ、ホメオパシーは医療からの人々の逃亡とみてよいように感じます。それは、ホメオパシーを需要する人々が通常の医療でみたされない欲求をホメオパシーが満してくれると考えているからだと思います。

もちろん、そうした欲求のなかには、そもそも、本人に破壊的にしか働かないようなものもあるでしょう。「ホメオパシーしてる私は、西洋医学などにだまされている大衆より偉い」と思いたいといった欲求をみたすために、自分の体を犠牲にしている人にはどうぞ御勝手にとしかいいようがありません。だけども、そのような欲求だけが人々をホメオパシーにむかわせているとは思えません。

私自身にとって、多くの医療現場で無視されがちなものとして感じられるのは、人間にとって、生存は自分の生の価値を達成するための絶対的な条件のひとつであるが、あくまで、自分の生をまっとうするための手段にすぎないということです。このことは、多くの人が周囲の人々や自分自身が死に直面するとき意識することだと思います。植物人間として生きることは意味があるのだろうか。自分の生き甲斐を達成することと、残りの人生の生存期間のいずれを優先すべきだろうか。このようなことは、生存と生きることの価値との間でうまれる問題です。現実の医療現場がどうであれ、このような問題は、代替医療のほうが、ちゃんと向き合ってくれると多くのひとが感じているのではないでしょうか。

ギャンブルへの欲求が社会にあるにもかかわらず、それを非合法なもとして蓋をするとそれらは、地下にもぐって、ヤクザの資金源になります。それと同様、ホメオパシーに向う欲求に正規の医療がこたえないと、あるいは、こたえられないと思われていると、それらの欲求は地下にもぐり、由井寅子の資金源になります。

これを避ける方法は、ドラッカーにもとづけば、医療の側でちゃんとしたマーケティングをするです。もし、正規の医療機関ホメオパシーの需要者のもつ欲求にこたえうる活動をしている医療機関は積極的にその情報をつたえる。それができていない医療機関は「市場」をリサーチし、それらにこたえうる体制をととのえる。これらのことは、とても難しいことではありますが、そういう姿勢を正規の医療機関が示すだけで、状況はずいぶん変るようには思います。(すでに、そういう活動をしている医療機関があれば、情報をいただけるとうれしいです。)

これらの問題には、あまり現状を知らずに書いているのですが、素人目にも、現在の医療制度では、これらのマーケティング活動を個々の医療機関がすることの障害があります。医療機関マーケティング活動は医療行為とみなされていません。これらの活動を医療機関がおこなう場合、それらにかかる費用は診療報酬や看護報酬からのもちだしとなるのではないでしょうか。また、ホメオパシー需要を医療機関がみたす場合、医療機関はカウンセリング機能を持つ必要がうまれると予想されます。精神病の治療などだけではなく、風邪や肝臓の病気などでも、カウンセリングがもとめられるかもしれません。(多分、ホメオパシーの「利点」のひとつは風邪ごときでも、カウンセリングの対象となることです。)ほとんどの医者はたぶん、そういうトレーニングはうけていませんし、そのようなことは医療行為とは考えられてないと思います。ある程度の制度改革は必要だと思います。

ついでに、助産婦協会のホメオパシーへの接近が問題にされていますが、逆に正規の医療機関が妊婦の自助グループを支援するといった活動をすれば、ホメオパシーへ流れる妊婦は減るようにおもうのですが、どうでしょうか。私自身、二人の子供で自宅出産を経験し、二人目の子供でお世話になった二人の助産婦のうちお一方はホメオパシーさえ超越なさって、「あっちの世界」にいってしまわれましたが、彼女の周囲には妊婦の一種の自助グループができていて、それが妻だけでなく、私にとって大きな支えになったことはいまでも感謝しています。

もしかしたら、多くの真摯な医療関係者各位にとっては、そんなことわかっているといわれそうですが…。