政治的に正しいことと、抑圧のないこと

昨日は組合の忘年会があり、幹事をしていた。かの左翼業界で超有名な同僚Oさんを誘ったのだが、授業がよるあるということで、じゃー二次会からということで、9時半くらいから、私のお気に入りの富山第一ホテルわきのハートビートでおちあって飲んだ。

私と同僚Dさんと彼だけの3人だけの二次会になった。彼がわざわざきてくれたのは、事前にDさんと私とで個人的にと話したいことがあるということを伝えていたことも気にしてくださったと思うのだが、私のほうは、すでにベロンベロンでかつ、ふだん、まったく飲まないし、人前でタバコを吸わないOさんが高級タバコを出したり、ウィスキーを飲んだりしているので、なんかはしゃいでしまって、大事な要件どころではなかった。

それで、酔ったいきおいで、まえから気になっていた話をふってみた。それはセックスについてちょっと聞いてみたのだ。というのは、彼の前でちょっとエッチは話をすると、どうも政治的に正しい対応に苦慮するように見える素振りを何回か見たからで、あーこの人でさえそうなのかなーと普段から思っていて、ほんとにそうか確かめたかったのだ。(現代思想でオナニーで有名な人と対談までしているのだ。)

Oさんは、彼がかつて、ポルノを禁止した場合に、未成年者が何をオカズにするかについての議論を論文として発表していること、個人がどんなAV女優のどんなビデオをオカズにしているかを話すことの必要性にふれた。(ここで、私が酔っているのもかかわらず、自分の性癖を告白するのに躊躇したので、話はとぎれた)おー、わかっとるじゃんと、自分の性癖の告白さえできないヘタレを棚にあげながら、なんか納得した。

どうして、こういうことが気になっていたかというと、彼だけの問題というより、男の左翼全般で、個人的な性の問題を男女差別以外の文脈で話すことが極めて少いと感じていたからだ。

さらにいえば、個人の生活にかかわる問題は経済的利害や差別とかかわる側面でだけとりあげられる傾向が強いと感じる。個人にとってのセックスの問題には、もちろん、既存の男女差別の問題がかかわるのは当然であるが、性生活なり、パートナーとの関係をなんらかの意味で充実させたいという思いもあるはずである。

一般的な差別問題にもこのことはいえて、差別のあるなしは人間関係において、とても重要な要素であることは否定できないが、表面的な差別さえなければ、かならず人間的な関係がむすばれているということにはならない。

しかも、左翼の多くにおいて、差別の問題は言葉狩りにみられるような、「政治的に正しい」発言や行動をとるかいなかに集中する傾向があるように思う。

いそいで補足したいのは、私は差別される側の言葉狩りを非難したいのではない*1。そうではなくて、差別をなくしたいが、差別する側あるはずの人々が「政治的に正しい」発言や行動をとること以上に問題を深めないことを問題にしたいのだ。

政治的に正しい」発言や行動が求められる場は、多くの場合、抑圧的な雰囲気をもつ。それらの発言や行動を求められる人は、「政治的に正しくない」人間というレッテルをはられ、排除されることへの恐怖心にかられる。このような場で、人を「政治的に正しい」行動に導くメカニズムは、左翼が批判する国家などの権力が人々を抑圧するメカニズムとかわるところはないだろう。

差別をしている人間が差別される側と人間的なつながりをもつ必要を感じていなければ、このような形である程度差別にブレーキをかけることは必要だと思う。しかし、そうではなく、表面的な差別の除去ではなく、抑圧のない関係をつくりあげることが目標であるならば、「政治的に正しい」行動の強制はせいぜい必要悪でしかないはずである。(くりかえしになるが、必要な局面がありうることは否定しない)

また、左翼的信条をもつ多くの人々にも、卒直にいって、自分自身に「政治的に正しい」行動を強制している窮屈さを感じる。「政治的に正しい」けれども、窮屈で人間味のうすい人々は、たとえ運動の方針が魅力的であっても、他のひとびとをひきつける魅力に欠けるだろう。あえて下品にいえば、「政治的に正しい」が精神的な意味でセックスが下手そうな男達とは多くのひとはおちかづきになりたくないだろう。

現状で差別をともなった人間関係への対処を「政治的に正しい」行動の識別でとどめておくのは、そもそも、差別をなくし、人間的な関係の構築に関心がないか、あまりにも、排除の恐怖におびえてしまい、それ以外に気がまわらないかのどちらかのように思う。

私はこの傾向が男の左翼に特有な傾向だと感じている。もしかしたら、男の左翼のほとんどは、どこかの国の政権とおなじく、自分たちの政治的な立場にしか興味がない結果である可能性もある*2。それなら、そういう運動はおちぶれてもしかたないであろう。そうでなければ、日常的な関係をもっと人間的なものにちかづけていくことについて、個人レベルでも運動レベルでもとりくむべきでなかろうか。

補足:人間的な関係をつくりあげることへの努力として、私がとても共感をもって読んだ本は次の本である。ウーマンリブ運動が単なる差別告発以上のものであったことがわかる。また、上野千鶴子などの一部のフェミニストはウマーンリブ運動のこのような側面を明確に継承しようとしている。

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

いのちの女たちへ―とり乱しウーマン・リブ論

*1:言葉狩りの擁護論として、

ことばの自由をもとめて (福武文庫)

ことばの自由をもとめて (福武文庫)


*2:大塚英志の下の本は新左翼運動に一部にあった性差別的傾向をえぐりだしている。すくなくとも、男女関係について、連合赤軍の男たちが人間的な関係をもとめていたとは思えない。

「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)

「彼女たち」の連合赤軍 サブカルチャーと戦後民主主義 (角川文庫)