松尾匡さんと廣松渉

補足:この記事で、石塚良次氏の論文「経済学と合理的個人」(『経済理論』第48巻第2号(2011年7月))にふれてますが、石塚さんとのブログとメールでのやりとりで、私の読みの浅かったことがはっきりしました。

石塚さんはタイトルにも明確にしているように、社会批判の基準における個人の位置付けを問題にしておられます。この問題は、たとえば、連合赤軍ポルポトのような社会改革をめざした運動が主体としての個人を運動のなかに位置付けらないことによる悲劇を知っているわれわれにとって、とても現実的な問題です。そのような問題意識をとらえられず、正当な論文の評価をしないまま、議論をかさねたことを石塚さんにお詫び申しあげます。

この記事と進化ゲームにおける個人 - 痴呆(地方)でいいもん。でのコメント欄での松尾さんとのやりとりで、松尾疎外論の極めて独自な主体概念の特質があきらかになりました。石塚さんはそれについての「誤解」を積極的に認めておられますが、この点は卒直にいって、松尾さんのこれまで持論の展開において明確にはわかりにくかった点だろうと思います。誤解という意味では私も石塚さんと同様でした。石塚さんと松尾さんの間での第二弾のやりとりがあることを期待します。


経済理論学会の学会誌に廣松渉の特集があり、そこで石塚良次氏が松尾匡さんの疎外論をとりあげている。これは、いぜん松尾さんが書いた廣松批判への廣松シューレ(といっていいのかな?)の返答の意味もある。

松尾さんの論文が出たときになにやら松尾さんに感想をメールしてやりとりをした記憶があるのだが、そのころと廣松への印象が変っている。

あんまり石塚論文をそのものを、きちんととりあげる気は実はなく、興味がないんじゃなくて、廣松を読むのは好きなのだが、頭がわるいのでいつまでたっても、人に読ませられるような廣松論など書けるレベルにないからである。

石塚さんがとりあげてないことで、廣松側からの松尾さんへの批判点になりうることを指摘したい。

まず、疎外論者のマルクス解釈であるが、すくなくとも経哲草稿からドイデあたりまでは、卒直にいって廣松のほうを信用している。それは単純な理由で、廣松自身もいろいろなところでいっているが、廣松のマルクス解釈上の画期的な点のひとつは、ヘーゲル左派の全体のなかでマルクスの位置づけをきちんとしたことで、いいかえれば、廣松はマルクスだけでなく、マルクスが言及した他のヘーゲル左派の論客もよみこんだうえで、マルクス解釈をしている。松尾さんに関していえば、フォイエルバッハシュティルナー*1への言及はあるが、卒直にいって、その当時のヘーゲル左派全体のなかでのマルクスの位置付けはとくに言及がないように思う。廣松は初期マルクス解釈として、ヘーゲル左派の全体像をふまえていない論者に対してはケチョンケチョンである。要するに、マルクスだけ読んでマルクスを解釈するのは自分のレベルには逹っしませんと判断しているのだ。

以上は前々から気になってはいたのだが、はっきりいって、松尾さんの疎外論マルクス解釈としていいかどうかというのは、私個人にとってはどうでもいい問題で、たまに松尾さんとやりとりするときにそんなことに時間をとる気にはならなかった。私なんかがいうより、石塚さんのような方が指摘するほうがよいのだし、はっきりいって、私自身ヘーゲル左派について、廣松が『唯物史観の原像』あたりでいっている範囲のことさえ、あたまにおさまっていないので、上の段落程度のケチしかつけれない。ただ、廣松に影響を受けた初期マルクスの研究者は私と同じ印象をもっていることは確実だと思う。

さて、こっちが本題だが、卒直にいって石塚さんの指摘は松尾さんを含め、多くの経済学者にはあまりに超越的な批判のように感じられるだろうとおもう。つまり、方法的個人主義者に対して、その個人って幻想だよと指摘しているわけだ。

いっぽうで、石塚さんはパレート効率的な社会状態が複数あるのなら、どれが社会的にのぞましいかいえないではないかと松尾さんを批判しているが、多分、松尾さんは疎外がない状態なら、すべての人が社会状態を平等に把握しているわけだから、民主的な手続きで社会的に選択すればいいし、どのパレート効率的な状態をえらぶかは、その社会の判断にまかせればいいと答えるのではないかと思う。このあたりは松尾さんの「革命後」のイメージをあまりにユートピア的にとらえすぎていると思う。社会党あたりの現場の運動家が大好きな松尾さんは、疎外がなくなっても、より社会を改善すべく、みんなであーだ、こーだいっているのをイメージしてるんじゃないかなーと思う。石塚さんはその決定の結果がいい社会とはいえる保障があるのかというだろうが、そこでは良くも悪くも松尾さんは個人の選好を度外視してるんじゃなかろうか*2

私が松尾さんの立場なら、超越的な批判と疎外のない社会のイメージがちがいすぎて、なんだかなーと感じるように思う。

私はここまで超越的にならなくても、廣松の立場から松尾さんを批判するのは可能だと思う。石塚さんの批判はあまりに哲学的すぎて、松尾さんを含めた多くの社会科学者にうけいれられないように感じた*3。私としては、どの論点も賛成なのではあるが、私自身、自分の書いたゲーム理論の論文に同じ批判をされたらすねてしまいそうだ。

個人という概念が幻想だってことまでいかなくても、方法論的個人主義の「意思決定」のありかたを廣松の議論から批判することは比較的容易におもう。そしてそっちのほうが、社会科学者には受入れやすいと思う。

松尾さんをふくめた方法論的個人主義において、個人は予想や情報にもとづいて、合理的な選択をおこなう主体である。規範も道徳も、松尾さんの議論では合理的な選択の結果として導かれる。廣松において、個々人は役割をもった主体として想定されている。もちろん、松尾さんの議論でも個々人が自分の役割を合理的な選択結果として遂行する議論は構築可能だ。しかし、廣松はその役割をもった主体が役割を遂行するように形成されるのは社会的過程の、もっとはっきりいえば、役割の遂行に対するさまざまなサンクション(賞罰)の結果とみなしている。松尾さんならば、こういわれてもサンクションの履歴によって期待を形成し、それによって合理的な選択を行なうと考えそうな気がする。しかし、たとえば、ある種のタブーの逸脱への対応も松尾さん流に説明できるだろうか。タブーを犯してしまったときわたしたちは不快感や強いストレスを感じる。私たちが規範や道徳、あるいは役割を守るのは、こういったもろもろの感情を避けるためではないだろうか。たとえば、タブーを犯した場合の自己懲罰願望というとても合理的にな説明できない感情は廣松シューレの山本耕一の『権力』でくわしくあつかわれている。

松尾さんが「はぁはぁいってる感性的個人」というとき、「はぁはぁ」いうのはなんでだろう。それは合理的選択の問題というより、社会によって形成された個人の規範・道徳・役割意識の間の矛盾なり、現実との齟齬と考えたほうが、わたしにはすっきりする。

それともうひとつ、私はゼミ生の山本哲嗣君の研究のおかげで、「認知的不協和理論」を知った。経済学者のアカロフなどもとりあげているし、ニセ科学文献などでもしばしば言及されているので、最近になってはじめてまともに読んだのは、不勉強このうえないのだが、いまの文脈で重要なのは、その理論の前提である。認知的不協和理論では人間の行動を決めるのは、ストレスの軽減と考えられている。くわしくはふれないが、私にはそれらの事例の多くはなんらかの役割からの逸脱と解釈可能だと思っている。この理論の前提を特殊な状況に限られるものと解釈するのではなく、人間行動の一般的な基礎と解釈し、その役割意識の形成を問題にすれば、私は廣松の理論ととても似たものができあがるように感じている。

これに関連して、廣松の議論の重要な点は社会というものをどのようにとらえるかである。廣松は社会唯名論と社会実在論の地平をマルクスが越えていることをしばしば指摘するが、はっきりいって、この点に関しては廣松の記述はわかりにくく感じる。私がなっとくがいくようになったのは大庭健の著作をよむようになってからである。非常に単純化していえば、廣松における社会とは振舞いへの解釈の体系である。私がおじぎをすれば、それはあいさつと解釈される。私たちは社会の中で共有された解釈体系のなかで振舞いを行うことで、社会の成員たりえている。もし、こうした振舞いの解釈からはずれた行為をとりつづけるなら、なんらかのサンクションをうけ、場合によっては社会から放逐される。このような振舞はある「役割」をもった「主体」がAという「意味」をもつ「行為」をおこなうと解釈される。このシステムは廣松いう四肢的構造をもっていることが容易にわかる。人々が社会の成員であるということは、このような解釈のコードにしたがって行動しているからである。個々人のいかなる選択も、このような観点からたてば、解釈のコードの範囲内でなされるにすぎないのは明確である。

多分、松尾さんも含めた方法論的個人主義と廣松の妥当性の判断は、私達の社会や規範、役割からの逸脱の恐怖のような感情をあらゆる社会生活の基盤とみなすか、しばしば、そのような「不合理な」感情にながされはするが、基本的には合理的な判断ができる主体と見做すかによると思う。

ひとこといえば、私は経済学が個人の逸脱へのサンクションに関心がなさすぎると感じている。それは日常的にみなが感じている感情であり、それこそ我をわすれるくらいそれにふりまわされている。

「はぁはぁいってる感性的個人」たる松尾さんに廣松はどういうだろうか。廣松にしたがえば、これは社会によって形成された規範・役割などの間の矛盾、あるいはそれらの現実との衝突によって起きる。廣松はそれらを個々人が反省的にとらえる可能性をわりかしはっきりと指摘している。廣松の哲学自体がそのこころみでもあるといえる。(廣松は人間の行動について、一般の社会科学ほど、決定論的にとらえていない)廣松自身の見解というより、私自身はこのことが社会変革の起点だとおもっている*4

これは確信はないが、廣松が衒学的に学知的見地といっているのは、実は革命家の立場なのではないかと思う。そういう意味では弁証法による体系構成法なんていうのは、ある意味では革命家になる方法みたいな本なんじゃないかと思う。それは火炎瓶のつくり方とか、機動隊への戦略がどうのとかいうのではなく、自分の行動への社会的条件付けに自覚的にとりくむ見地を確保することである。
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もう一つ、経済学者に関心をもちそうなのは廣松理論が数学的にモデル化できるかどうかについてだが、大庭健は廣松に影響下で書かれた本のいくつかで、一般均衡的なモデル化は社会科学のモデルとしては不完全とみなし、熱力学的なモデルを提案している。主体の形成まで考慮すればそのとおりなのだが、限定された範囲であれば認知的不協和理論のようなストレスの低減のような単純化のもとで、わりと経済学の標準モデルに近いモデルは構築が可能なように思う。

さらにしつこく追記。廣松は疎外論者に嫌われているけど、廣松にとっての敵は疎外論者よりスターリン主義者だったと思う。『マルクス主義の地平』で実存主義批判にみえる論文を書いているが、実存主義でもけっこう現状分析ができて、なおかつ、実存主義でいっていることが物象化論でもいえますみたいなことが書いてあった気がする。廣松が疎外論的な問題意識を否定したわけではなく、それを扱うフレームワークとして物象化論のほうが適切だというのが、廣松のいいたかったことではないか。廣松シューレには大庭健さんのような実存主義している人*5もいるし。

気がむいて、手元に廣松の本がない状態で書いたので、正確さはまったく保障できません。すんごい荒いんで、専門家の石塚さんが読まれたらおこっちゃうかもしれません。あらかじめあやまります。ごめんなさい*6。松尾さんもふくめて興味をもったら、御自分で廣松そのほかの本をご確認ください。

あと、「政治的正しさ」の話と同じ日になっているのは、自分の中ではほとんどつながった話題であるからです。廣松を読むととても日常的なことに意識が向くのですが、廣松の運動論的なものを読むと、ほんとうにいわゆる運動のことしかあつかってなくて(例外はあるが)、なんだかなーと感じているわけです。そのあたりは、松尾さんの書くもののほうが、とても共感をもてるのです。

*1:唯物史観と国家論』での廣松のシュティルナーへの言及は松尾さんは読んでおいたほうがよいのではと感じる。

*2:それを選好関数を特定化しているといえるかもしれないが。

*3:卒直にいって、廣松のマルクス経済学への関心のもちかたというのも、なんだかなーと思っている。歴史家や理論家としての廣松マルクスはおもしろくない。廣松自身が石器時代あたりの歴史をかいた『唯物史観と生態史観』はおもしろいのに。廣松は経済学者や歴史家としてはあんまりマルクスを本音では尊敬してなかったんだろうか。

*4:行動経済学では経済主体がしがちないくつかの「非合理的行動」が当事者でないコンサルタントの助言で矯正可能なことを示している。社会を変えるなんていうだいそれたことでなくても、日常生活を円滑にするうえで、自分の行動を反省的にとらえることは価値はある。

*5:実存主義者ではない

*6:松尾さんはこういうやつだと知ってますよね。