進化ゲームにおける個人

松尾さんからの先日の記事へのコメント

http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20111209#c1323503145

今考えているのは、内面の道徳感に合ってたり外れてたりすることで、効用にプラスとかマイナスとか付加される効果をいれた上で、合理的にゲーム計算して均衡で行動が決まるんだけど、その結果のリアルな損得の部分に合わせて、進化論的にそういう心理効果が人々の間に増減していくというもの。

「リアルな」というのも問題含みなので、いろいろ検討が要りますが、自爆テロにプラス効用感じるとそういう人は死んでしまうので広がらないみたいに思うかもしれないけど、自爆テロ誉めないと迫害されるというのもリアルな効果だから、やっぱりこういう心理にも有利さがあって広がるかもしれません。

あそこでの松尾さんの議論のとりあげ方は、松尾さんの本をちゃんと引用するんじゃなくて、「僕の知ってる松尾さんなら、こんなはず」的なやつなのに、松尾さんに「だいたいあたってる」といわれてちょっと胸をなでおろしている。

それで、松尾疎外論に進化ゲームを取り入れた場合、生じるであろう問題に言及したい。前回と同様、石塚さん的なとりあげ方は、歴史家、経済学者のマルクス好き(松尾さんや私)には、正当性を理解できても、社会科学的にどうやねんになることをふまえて、あくまで、日常的な社会行動の分析の場面を想定して考えていきたい。

突然であるが、こんな2chのまとめを目をした。
http://blog.livedoor.jp/nicovip2ch/archives/1731103.html
ようは、知人の女性に泣いてSexたのんだら、してもらえたという話である。2chのスレなんで、これが実話かどうかもわからんのだが、泣いて○○してもらうというのは、男女関係で結構あるし、私も当事者になったことはある(と奥さんにおこられそうなことをプチ告白してしまう。あ、あと私の場合はSexでないよ。)。この話が実話だとして、本人に聞いてもらわないとわからないのだが、泣いたら、おもちゃ買ってくれるお父さんとかお母さんとか結構いるわけだし、先生なんかでも、そういうのに弱いのは結構いると思う。それを背景として考えると欲しいものを手にいれるために泣くという戦略は結構有用なことが多いように思われる*1。こういうのが割と一般的なら、進化論的に○○が欲しいときに泣くといパーソナリティーが強化されていくわけだが、そのときの選好をもち、選択する主体っていうのはこのとき誰なんだろうか。

人によっては、意識的に○○欲しいときに泣くという行動をとる、つまり頭の中で「○○して欲しいから、この場は泣いてしまおう」と考えて泣くやつもいるだろう。だけど、ほとんどの場合、その反応は肉体レベルの反応で、自動的に「○○ほしよー、えーん」となるんじゃないだろうか。うえの2chスレッドのひとも(実在なら)あきらかにこれである。

彼は○○を所有することが容易になるようにそういうパーソナリティを発達させたわけであるが、そういうパーソナリティの進化もとりこんだ社会状態を評価するうえで、個人の選好にもとづくことは困難が生じると思う。通常考えられている選好はパーソナリティとは独立ではないからだ。

自然に考えれば、αというパーソナリティを身につけた個人とβといパーソナリティを身につけた個人はちがう選好を表明すると思われる。そのパーソナリティの発達が進化ゲームの帰結であれば、社会状態をそこに属する個人の選好にもとづいて評価することは可能だろうか?

Aという社会状態ではある個人はαというパーソナリティを身につけ、Bという社会状態ではβというパーソナリティを発達させる。このとき、AとBを個人の観点から評価するとき、αとβどちらの観点で評価すべきだろうか。

この困難を解消させつひとつの方法は社会状態Aならばα、社会状態Bならばβのパーソナリティを発達させるのをなんらかの選好の表明と見做すことである。つまり、パーソナリティをこえたメタ主体を想定することである。

これは一つのありうる解決の方法であるが、このメタ主体を一般にいう意味の個人として考えるのはちょっと無理がある。まず、この選好は実際には選好というより、個人のパーソナリティを形成するメカニズムそのものである。そのメカニズムが最大化する指標を便宜的に選好と呼んでいることになる。個人のパーソナリティは個人に属する要因によってのみ進化の方向が定まるのではなく、進化ゲーム全体によって決まる。とすれば、選好の「主体」は進化ゲーム全体と考えるのが自然である。こう考えると、社会には進化ゲーム全体という一つの主体しかいないことになり、この観点をとりいれば松尾疎外論は究極のファシズムになる。

これを避けるには、個人のパーソナリティを形成するメカニズムのうち、個人に属するメカニズムを構成するファクターを「個人」とすることが考えられる。しかし、その場合、どこまで各個人とゲーム全体の境界を明確にひくことはできるだろうか。たとえば、社会状態Aではある個人は警察官であり、αというパーソナリティーを発達させる。社会状態Bでは彼は教師であり、βというパーソナリティを発達させる。警察官であることや教師であることは個人に属することがらであろうか、そうではないのだろうか。ここで警察官なり教師なりという属性を個人に属することとすると、また同様の問題が発生する。それをすべてはいでいく方向をとるとすれば、個人は究極的には肉体と脳と神経組織のメカニズムのようなレベルまで切りおとされてしまう。

おそらく、進化ゲームを導入すれば、松尾さんはなんらかの形で近代的な個人を基礎付ける方向にいかざるをえないと思うのだが、それがどのように可能か興味深いところである。

私が考えるに心理的な進化を松尾疎外論に導入するとすれば、この問題は不可避のように感じます。これは超越論的な批判のつもりはなく、規範や慣習も一定のパーソナリティの基盤をもっている場合がほとんどであり、パーソナリティの進化を考えると不可避的に異なる進化のパスの評価基準をどのパーソナリティの観点でするのかという問題が発生するように思います。

すでにのべたとおり、一つの方向は意識を形成する主体は世界全体と考える方向で実はこれは、廣松批判としてやすいゆたかさんがしています。これは廣松批判として展開されていますが、廣松が物的世界観では説明できないとしていることを物的世界観で説明してしまおうという試みであるわけで、そういう意味では廣松理論の受容の一つの方向といえると思います。ここでやすいゆたかさんのほぼすべての著作がよめます。→http://www42.tok2.com/home/yasuiyutaka/

ただ、この方向は松尾さんは絶対にうけいれないのではと想像します。すでにいったとおり、やすい理論+松尾疎外論は究極のファシズムになり、近代の復権どころか、「近代の超克」になってしまうことが容易に想像できるからです。

あと、たぶん広く意識されているんじゃないかと思いますが、行動経済学の議論って、ちょっとつっこんだら、このあたりの話にモロにぶつかる話ばっかりのように思います。この割と行動経済学新古典派的な経済学を改良するみたくいう人がおおいように感じますが、不勉強で読んでないだけですけど、このあたりの情報を知ってるひといたら教えてください。

*1:あくまで、これも僕の知ってる松尾さんは的なんだが、きっと松尾さんもこういうのを女の子にされると(以下自己規制)