学問の自由はきらい

誰の話かいわんでもいいんだけど、大学の処分の妥当性については別にして、学問の自由を声高に叫ぶ大学の教員は嫌いだ。

本来、学問の自由というなら、大学の教員だけでなく、すべての市民にあるはずである。大学の教員など、学問する上で恵まれた条件にある人間だけがに学問の自由があるなんて変でしょう。

自腹を切って*1するんならいいけど、一定のカリキュラムを前提とした教育システムの中で研究と教育をすることために支出されている金で研究・教育してんだから、そのお金をつかってするからには義務をともなうのはあたりまえである。

もし、その支出の目的の達成ために、大学の教員の研究を自由にさせておいたほうが望ましいなら、大学の研究において、学問の自由はあたえてやったほうがいい。大学での学問の自由はこういうもののはずで、大学人の人権でもなんでもなく、目的達成の効率性の観点でみとめられているにすぎない。それを人権と勘違いしてるアホが多すぎる。(大学の自治を勘違いしてるバカも多い。)

学問の自由を尊重するなら、学問をするすべての市民が学問できることを目指すべきである。そういう理念を背負う気概があるのなら、学生の学力低下は学力の低い人でも大学にはいれるようになったという意味の進歩なのに、数学のできない大学生とかいうのやめんか、アホ数学者、アホ経済学者*2。学問の自由は自分の趣味を講義でしゃべくる言い訳じゃねーんじゃ。

声高に学問の自由をいうやつの多くは学問の自由の既得権者である。彼らは現在の自分の学問を保障しているリソースが平等に配分されることなど望んでいない。ゼミ生に迷惑をかけても知らんぷりする教員、授業に関して学生から苦情があっても対処しない教員、そして、ツイッターで専門家面しながらヘイトスピーチを繰替えす教員はみな学問の自由を声高にさけぶ。

ついでにいえば、学生のニーズにカリキュラムを合せようとすると、「大学は予備校じゃない」というバカも嫌いだ。

追記:バカを説得しようとして、Wikipediaなんか見てたら、伝統的には学問の自由は大学の自由と解釈されてきたうんぬん。日本国憲法の学問の自由は従来はそう解釈されていきた云々。また、中学生レベルの社会科の知識の欠如がわかってしまったわけだが、日本国憲法の「学問の自由」が大学の自由なら、日本国憲法がきらいだ。

*1:理想的には最低限の学問をすべての市民が可能なように、学問の社会保障給付みたいなのがあればいいのだが

*2:だんだん、誰に書いているかわからんくなってきたな