「アスペルガーだから」は行為の動機ではない


昨日は酒を飲みながら、感情のままに書いたが、後悔もしていない。ただ、多少理屈で説明したほうがいい部分もあるので補足する。http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20130310 への補足である。

いまから書くことは、アスペルガーについての通説ではない。私が読んだアスペルガーについての本は、アスペルガーは克服したり、症状を緩和したり(それらは、ほとんどの場合、できっこない)する対象として書かれていて、社会的な側面をほとんどみていない。

われわれは他人とかかわるとき、他人の行動になんらかの期待をもって、行動を予想したり、行動の意味を解釈したりする。それによって、たとえば、「ばかやろう」といわれたときは、相手は自分をこころよく思っていないというようなことが理解できる。あるいは、言葉の調子がやわらかく、「ばかやろう」といわれたときは、深愛の情なのだと理解したりする*1

アスペルガーをふくめて、発達障害といわれている病気はこのあたりの部分が社会の多数派の人びとと同じようにできないことによって、「病気」とみなされているのだと思う。彼等の多くは「ばかやろう」がどういう場合、深愛の情なのか、判断にまようと思う。

他人や社会にめいわくをかけて、なおかつ、社会から異常のレッテルをはられない行為はけっこう多い。それらは、ある意味では社会における行為の解釈のコードによって理解可能である。いいかえれば、そういった他者を害する行為は、その結果にもかかわらず、他者の期待の範囲内の行為である。

異常=精神障害or知的障害なのであれば、朝日の記者も、いじめを放置している学校の関係者も精神異常者である。しかし、彼らの行為は正義とみとめられないにせよ、なんらかの意味で他者の期待に応えた行為であるがゆえに、また、他者の期待にこたえたことも社会から理解可能であるがゆえに、彼らは「精神異常」とはうけとられない。

ところが、そういう他者の期待を十分に理解できない人びとは他人にめいわくをかけなくても、「異常」のレッテルをはられる。彼らの行動が社会のコードをはずれているという理由から、その動機をきちんと理解される対象とさえならない。マスコミの連中が正義にもとる行動をとる理由が「アスペルガーだから」というのは動機の説明でもなんでもなく、単に「彼らは理解できない人びとだ」といっているにすぎない。

(これも個人的な印象だが、すくなくとも私の息子に関しては、世間におもねって善悪の認識をかえるということは少ない。くりかえしになるが、できないのだと思う。そういった本音と建前をつかいわけるようなことが必要なことはとても苦手である。)

アスペルガーの人びとに対して、いろいろとアドバイスをする人が専門家もふくめて多いが、すくなくとも、個人的な印象としては、息子と接する際に、問題をこじらせる原因は私が息子を単純に理解しようとするのをやめてしまうことだ。基本的にはアスペルガーであろうと、「正常」な人びとであろうと、相手の気持を理解するということが人間関係において大事なことはまちがいあるまい。ところが、専門家の見解も含めて、アスペルガーの人びとの行為は、その動機を理解されようとする以前に、「アスペルガー症候群によって引き起されたもの」とレッテルをはられる。つまり、動機を解釈されるというより、解釈不可能な行為というレッテルをはられる。

ついでにいえば、アスペルガーについての本に上記の観点で書かれた記述がまったくないわけではない。しかし、その場合の多くは本人が他者に解釈可能な行動をとるように訓練したりすることをすすめる方向に向い、周囲の人間が他者がアスペルガーであるなしにかかわらず、他者へのまっとうな配慮をすれば、状況はずいぶんましになることを指摘していることはまれであると感じている。

アスペルガーの人びとを理解しようとしないような人間関係の結末は、「空気」の支配である。人びとの行為は本人の本当の意図とはかかわりなく、社会のコードにしたがって解釈され、本当の意図や願いは無視される。アスペルガーの人びとは空気を読まないが、脳の入力を空気以外のものに向けている。アスペルガーだから、他人の気持を理解しようとしないわけではない。ただ、社会のコードにしたがった仕方で理解できないのである。「空気」の支配でにっちもさっちもいかない状況でアスペルガー的な観点から、つまり、空気とは比較的自由な観点から学ぶことはたくさんあるはずである。アスペルガーなり高機能障害への対策うんぬん以前に、必要なときには既存の社会のコードから自由に、人間の多様性を前提に他者を理解しようとすることは、社会の健康にとって、とても必要なことだろう。それは「アスペルガー症候群への理解」なんかより、ずっと大切なことだと感じる。

補足の補足になるが、すごくいいかげんな形で、廣松渉大庭健の議論を参考にしている。とりあえず、大庭健の「いま、働くということ」をあげておく。

いま、働くということ (ちくま新書)

いま、働くということ (ちくま新書)

*1:前日の文章での私の書いた「ばかやろう」は文字通り罵倒の意味である