進化経済学のもろもろの用語への違和感
事務能力がないのに某学会の事務局をひきうけてしまって、てんぱっている。とりわけ、吉田雅明さんや石塚良次さんと直接やりとりができる幸運にめぐまれているのに、全然時間がつくれない。せっかく刺激をもらっているので、ちゃんと勉強したいのだができない。こんなに勉強したくてしょうがない気分になったのは何年ぶりだろうか。
というわけで、先週末に石塚さんのコメントを読んで思うところがあって、西部忠さんのホームページにあった文章を探しにいってみると、西部さんの論文の大半がpdfになって読めるようになっていた。実は翌日、同僚といっしょに学生を新潟大学であるインナー大会に引率することになっていたのだが、勉強したいしたいしたいしたいに引火して、徹夜して西部さんの論文サーフィンをしてしまった。
石塚さんには、ベルリンの壁崩壊のすぐあとに大学院にはいって、当時のマル経の主張より、近経の主張にリアリティを感じた旨をコメントの返答として書いたのだが、そのあたりのことが気になっていて、西部さんの 「多層分散型市場の理論―不可逆時間,切り離し機構,価格・数量調整―」*1なんかを見てみた。そこに「価格調整と数量調整を阻害する要因」という表があって、価格調整の部分であげられている要因のほとんどは、主流派のミクロ経済学であげられているものと同じである。西部さんは主流派と違うメカニズムを想定しているので、要因としては類似のものを考えているとしても違うようなシステムの振舞いをする可能性が高いが、そのあたりどうなんだろうと思って、「互酬的交換と等価交換―再生産経済体系における価格の必要性―」を見てみた。主流派の経済学では価格のパラメータ機能の側面しか見ておらず、価格メカニズムの理論として、そうでない課題もあるということは理解できたのだが、西部さん自身が価格のパラメータ機能(あきらかに西部さんはそれを否定する立場ではない)を、どう考えているのかはよくわからなかった。というわけで、西部さんの価格メカニズムの議論が一番詳細に書いていそうな「市場の多重的調整(上)」を読んでいるわけです。
以上はやや長いけど前ふりで、こういうわけで進化経済学1年生みたくなっているのだが、いままで新古典派に洗脳されていた立場からすると、西部さんだけでなく、いわゆる進化経済学の方々の用語の使い方にとても違和感を感じるのである。たんなる理解不足かもしれないし、まあ名前なんてどうでもいいじゃん的な対応もありうるのだが、誤解のもとになっていると思う点も多々あるので、書いておきます。
進化経済学という学派の名称
最近では、進化経済学という言葉は経済学の特定の立場をあらわす言葉になっているように思う。これにはとっても違和感がある。
進化経済学と呼ばれている立場の主流の経済学との差異は進化にかかわることがらだけではない。進化という側面は経済学の本質にかかわることであることも認めるし、進化経済学と呼ばれている学派がそれを適切にあつかいうるフレームワークの提示を目指しているのもわかる。それでも、それを主張している人びとは経済学全体の革新を目指しているのだから、経済学の特定分野である経済における進化の研究と誤解されやすいような名前をつけるのはいかがなものか。
それに加えて、「制度の経済学」にも感じるだが、主流派におされて、マルクス経済学という出自を隠している*2のではという下衆なかんぐりもしてしまう。むしろ、新古典派に継承されなかった経済学の伝統を継承している自負がつたわるような名称のほうがいいんじゃないかと思う。
分野名でないことを明確な意味でも、伝統の継承が明確であるという点においても、塩沢由典さんがしばしば使う現代古典派といういいかたのほうが、私はずっと好きである。
ミクロ・マクロ・ループ
ミクロとマクロが相互に関連しているということ自体は主流派のひとびとも否定しないだろう。私も、塩沢さんがこれをいっているのをとても雑に理解していて、最近まで何をいってんのかわからなかった。
まだまだ誤解しているのかもしれないが、ミクロ・マクロループへの誤解の原因は、主流派において、ほとんどの場合、主体の行動とは機会集合のなかからの変数の選択であって、彼らにとって、行動様式の変化というのはせいぜい選択される変数の不連続に近い変化でしかないことである。したがって、彼ら*3にとって、ミクロ・マクロ・ループと聞くと、「マクロの変数がミクロの変数を規定して、ミクロの変数がマクロの変数を規定するなんてあたりまえやん」ということになるのだろうと思う。たとえば、個々の主体の需要量、供給量と市場できまる価格の関係だってミクロ・マクロ・ループじゃんかという話になってしまう。
ところが、働きかけの限界なり、視野の限界なり、なんらかの理由で主体の行動が一定の習慣的なルーチンとしてなさざるをえなくなると、そのルーチンのと環境のむすびつきが重要な意味をもつようになる。環境は個々の主体のルーチンの産出物といえるし、特定のルーチンがとりつづけられるためには一定の環境が前提となる。ミクロ・マクロ・ループという用語はこのあたりのことが明確にならない意味でとても不適切な用語と感じている。
もう一点はたとえば、言語学におけるラングとパロールの関係など、進化経済学でいう意味のミクロ・マクロ・ループの事例になりうる素材は他の社会科学などの分野でたくさんあると思う。私はミクロ・マクロ・ループがきわだって革新的なアイディアというより、他の社会科学分野でしばしば常識になっている重要な発想の経済学への輸入とうけとっている。(塩沢さん自身の着想の経緯はちがうけども。)植村高久さん*4の著書の書評論文で塩沢さんは廣松渉にふれていたが、廣松の発想もミクロ・マクロ・ループと近いと思う。したがって、他の社会科学分野の類似の発想と連続性がわかりやすい用語のほうがよいのではと思う。
環境適応型競争と環境創出型競争
さきほどあげた西部さんの論文の中での用語であるが、環境創出型競争の中身はマルクスの特別剰余価値の生産あるいはシュンペーターの新結合(イノベーション)の導入であることは西部さん自身否定しないと思う。だったらそう呼べばという気がする。新結合の中には直接、環境にはたらきかける形のものもありうるが、ややちがった商品のバリエーションとか、環境創出という言葉からは想像できない種類の活動も多く含まれる。
新結合、あるいは特別剰余価値の生産を新古典派の理論が適切にあつかいえないことが、環境を創出するような種類の新結合の分析を困難にしていることは同意できるが、それを強調するあまりに概念の中身と用語のズレが生じているように感じる。
と文句たらたらなんですが、進化経済学に限らず、経済学の用語は意味がとりずらくなっているものがとても多い。たとえば限界はmarginalの訳語で、原語では中身を適切にあらわしているが、日本語では限界はlimitの意味でもつかわれるので、半分以上の学生がはじめはそっちの意味ととりちがえる。Increasing returnを収穫逓増としたりするのもなんだかなーである。「逓」なんて漢字、逓信病院くらいでいしょ、日常的につかうことって。死荷重というのも意味不明。あまりにも意味不明なんで、入門書ではわざわざ社会的コストとか、ちがう用語をあてはめたりしている。そんなんだったら、つかうのやめませんか、なのである。
そういうわけで、もし同意されるのでしたら、50年後、いや、いまこれから進化経済学現代古典派経済学を勉強する人達のため、ご検討ねがえればと切に望みます。