ミクロ経済学の入門書のウソ

以下の文章は吉田雅明さんのご著書の内容の紹介として書きはじめたのだが、独立させた記事にすることとした。この部分を十分に理解していただいたほうが、読者は吉田さんの主張がよくわかると思う。

それと先日の経済教育学会のシンポジウムに出たひとしかわかりませんが、八木紀一郎さんの飯田泰之さんへのコメントともおおきくかかわっていると思います。

ここでとりあげるのは、理論の中身のウソではなく、理論を正確に記述しないというウソをやっているということである。

ほぼすべてのテキストはなぜ完全競争市場で均衡価格が成立するかの説明をしている。よく知られているように需要供給分析によれば、均衡価格より、現実の価格が高いとき、超過供給が生じ、それによって、価格は下る。そして、現実の価格は均衡価格に近づいていく。

これに外見が似ている現象自体は現実経済のなかでも容易に見いだせることもあって、この事実の存在自体には、学生の多くは納得する。これは経済学の中で、もっともよく知られた理論のひとつであろう。

しかしながら、少くとも入門的教科書における、その説明は嘘八百である。このことは実は私が指摘するまでもなく、ほとんどの経済学者は実は知っているのだが、ありていにいえば、確信犯的にみんなウソつきなのである。入門者を対象とした教科書で、以下に指摘する点をきちんと書いた教科書は(それが本当に現在の日本の大学生にとって入門レベルといえるかは別として)森嶋通夫の『無資源国の経済学』くらいしか、思いうかばない*1。実際、ちゃんと考える学生の中には、このウソの部分に気がついて、混乱する学生もじつは少なくない。

以下は八田達夫ミクロ経済学I』での超過供給からの調整過程の説明である。

この時、市場価格で売れない売り手が出現します。彼らはほんちょっと市場価格より値段を下げます。すると他の売り手からお客が移ってきます。安く売られているというニュースが次第に伝わると、200円で売っている店の客は減っていきます。したがって、この事態に対抗するために、他の売り手もほんのちょっと価格を引き下げます。そのニュースが伝わると、200円より低い価格が相場になります。

この記述事態は、現実の価格の変動の説明としてはまずくないと思う。しかし、理論としての需要供給分析の説明としてはまずい。この説明は完全競争市場についての説明である。完全競争市場はすべての買い手、売り手がプライステイカー価格受容者)である市場である。価格受容者とは、簡単にいえば、自分の商品に値札をはることができない人のことをいう。

売り手や買い手が値札がはれなければ、どうやって価格がきまるのか?それは売り手、買い手の以外の人が値札を貼っているのだ。そのような人はよく、「ワルラスのせり人」と呼ばれる。これはイメージとしては一個一個の商品に値札を貼っているというより、市場の中の売り手、買い手全員が見える電光掲示板のようなものに価格を張り出すようなことを考えたほうがよいだろう。

この価格は一種の公定価格なのだから、実際に行えば、特定の売り手と買い手が「ヤミ価格」で取引してしまうかもしれないが、理論の想定としては、それは禁止されている。つまり、それがプライステイカーであることである。八田の説明の中の売り手がしているように、売り手が勝手に価格を引き下げたりすることは、完全競争市場では御法度なのだ*2。また、このような想定でなければ、教科書のプライステイカーの想定と齟齬がでてくるのはあきらかだ。プライステイカーである売り手が自分の商品に値札を張るはずがなかろう。

また、通常、需要供給分析では、超過供給が起っている状況と、均衡価格で取引されている状況では、需要曲線、供給曲線は同一である。価格調整の過程の途中で需要曲線、供給曲線がシフトするとは考えられていない。

しかし、上のような説明のケースで需要曲線、供給曲線はシフトしないであろうか?上にあるように市場価格で商品を売れる売り手と売れない売り手がいたとしよう。売れている売り手は在庫が減ったわけだし、売れない売り手は在庫がそのままである。そのことが売り手の供給態度に影響を与えないとは考えにくい。

また、上の説明では売り手が各自で値段をつけているのだから、同じだけ価格を引き下げるとは考えにくい。199円をつけた売り手と198円をつけた売り手の収入はちがうはずである。そうすると、直前に、何円で値札をつけたか、財が売れたかどうかで、売り手の供給曲線がシフトすることになる。

なによりも、売り手が価格をつけているのなら、売り手の価格付けについての理論がなければならないはずだが、完全競争市場における売り手の価格付けの理論など教科書のどこにもない。そうでなければ、モデルは完結しないが、そんな理論は教科書のどこにもない。

つまり、ミクロ経済学の教科書はモデルと文章の説明が乖離している二重人格な記述なのだ。

タネをあかせば、上記のような需要供給分析の説明は、中級以上の教科書では、ウソであることがあきらかになる。以下は奥野・鈴村『ミクロ経済学II』の完全競争市場での取引についての記述である。以下は一般均衡分析についての説明からの引用であるが、需要供給分析でも同様である。

取引の開始に先立ち、中立的な競争機構をつくり、各財の価格がつねに市場で公開されるようにする;

ここでいう中立的な競争機構とはワルラスのせり人である。ここではっきり、売り手が値札をはることが禁止されている。

では、売り手のかわりに「ワルラスのせり人」が価格をさげることにすれば、入門テキストの説明は問題がないのか?そうではない。すでに書いたとおり、超過供給や超過需要で取引がなされると、取引がなされた売り手買い手となされなかった売り手買い手の供給態度が変化し、需要曲線や供給曲線が変化してしまう可能性がある。入門テキストにおいても、そんなことは起っていない。中級レベル以上の教科書ではどうなっているのか。ふたたび、奥野・鈴村から引用する。

実際の取引は、経済全体として各財の需給が一致する市場均衡価格の下でのみ行なわれる

つまり、どういうわけか、需要供給分析では、均衡価格が成立するまで、実際の取引はしないのである。じゃあ、均衡価格が成立しないときには、なにをしているのかといえば、「ワルラスのせり人」さんに向って、電光掲示板の価格なら何個売ります、何個書いますと、需要量、供給量を宣言しながら、ひたすら待っているのである。

以上をふまえて、八田氏の説明を正しい需要供給分析の説明に書きなおすとだいたい以下のようになるだろう。

売り手も買い手も電光掲示板に張り出された市場価格に正直に自分の需要量と供給量、つまり、その市場価格でいくら買いたいか、いくら売りたいか宣言する。市場価格が均衡価格より高いとき、超過供給つまり需要量の総計を供給量の総計を上回ることが生じる。市場では需要量と供給量が一致しないと取引をしないことになっているので、取引は行なわれず、電光掲示板の市場価格は下げられる。この価格でも超過供給があるうちは、取引はおこらず、市場価格は下りつづける。市場価格が均衡価格と一致すれば、そこではじめて、実際の取引が行われる。

この市場モデルの非現実性は、一つは値札を売り手がつけられないことにあるが、もう一つは均衡にならないと一切取引がおこなわれないことにある。われわれは市場が均衡するまで待って取引を行うなどということをしたことがない。

こんな市場どこにあるんかと思う人が大半だと思う。実際、こんな市場で取引されている商品は、あったとしても極わずかである。ウソをいわずに需要供給分析を入門レベルで説明すると、多くの学生は、なんでこんなSFみたいなの勉強するの?もっと現実の市場を勉強したいといいだす恐れがある。それがほとんどの教科書がウソを平気で書いている理由ではなかろうか。

個人的な意見をいえば、需要供給分析は、ウソの説明で現実説明力があるかのようなフリをするより、有用性、あるいは必要性にもとづいて構築されたSFとして説明したほうがよいと思う。この理論の特徴の一つは、売り手の価格の値付けの説明ではないという点であるのだが、ほとんど教科書は、その最重要ポイントがよみとれなくなってしまっている。

あと、私は学力がないのでちゃんとできないが、リカードマルクスがどんなふうに価格メカニズムを分析しようとしたか、ワルラスの分析の課題とか、経済学史的なアプローチもありうるだろう。

それと自分がかかわっている本の宣伝だが、『1からの経済学』の第3章価格メカニズム(畦津憲司さん担当部分)は、こういうSF的な価格メカニズムの設定と現実経済の価格メカニズムの橋渡しをすべく、多大な、そして、独創的な努力をしている。(つづく、私の章もがんばったので、読んでほめてください。畦津さんみたいなオリジナリティないけど。)

1からの経済学

1からの経済学

これを非現実的だと感じた人に残念なお知らせをすれば、均衡の外での取引を認めない、均衡になるまで、みんな取引をせずに待っている、という非現実的な想定は需要供給分析だけではなく、それより現実的とされる一般均衡モデルにも、あるいは、そして、暗黙には、ほとんどのマクロ経済モデルにもあてはまる。ある意味、進化経済学*3の人びとの努力は、ある意味ではこの非現実性を拒否したモデルを構築することつきる。(たぶんつづきます)

*1:浅田統一郎さんのテキストもちゃんと書いてますと御本人からお聞きしたけど、まだ未読。たぶん、これだと思います。

ミクロ経済学の基礎

ミクロ経済学の基礎

*2:八田がこのとに鈍感なわけではなく、これにからめて裁定価格のはなしをしているのだが

*3:あんまりこの呼び方すきじゃないです。以前の塩沢さんのいっていた現代古典派のほうがしっくりきます