新田滋さんの論文にプチはまり

進化経済学会のメーリングリストで、下記の二本の論文を知って、ちょっとはまってしまった。

「宇野理論と限界原理

http://www.unotheory.org/files/2-12-7.pdf

「「復元論」と「分化発生論」について―宇野弘蔵と山口重克の方法論をめぐって―」

http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/nenpo48-7.pdf

「宇野理論と限界原理」は、宇野形態論に限界原理をとりいれるこころみ。「「復元論」と「分化発生論」について」のほうは、資本論のとりわけ価値論があんなめんどい書き方(弁証法的な展開)しているのなんでというが、ずっと頭にあり、それについて無駄に哲学的なヘーゲルの云々みたいなのは除いて、廣松渉のような一部の例外(あとで触れます)をのぞいて、アホにもわかるように書いてる文章がなかったので、「こんなの読みたかった!!」という感じでとても感激した。

それで内容の紹介というより、自分勝手に関連論文をネット・サーフィンしながら考えたこと。最初の二つの節は、ふだん私がなんとなく考えてたこと(でも新田さんの論文を読むおかげでかなり明確になりました)で、新田さんとは直接関係ありません。

宇野派のひとが読むかもしれないので、注意書きですが、私の専門はマルクス経済学でありません。植村高久さんが私の最初の経済学の師匠でしたが、反抗して最初の師匠にそむいたので*1、宇野原論をきちんと読む機会をもっていません。

廣松の唯物的弁証法解釈(まえふり、その1)

このブログの読者にとっては、また廣松か、なのですが、なんで資本論弁証法的かについては、私にとっては廣松渉の話がわかりやすい。というより、合理的に弁証法が必要な説明は廣松のものしかしらない。それは価値の存在のありかたの特殊性からきていて、われわれは交換価値を考えるとき、交換される二つの財についてのなんらかの実体を想定してしまうが、そんなものは物理的には存在しない。実際の商品や労働はまったく個別な、ひとつに還元できるような実体をもたないにもかかわらず、家計簿、簿記、会計など、いろんなレベルで我々は、こうした実体が交換や生産をつうじて移転したり、帰属したりといったことを前提に計算している。そうした実体は商品や労働の属性ではありえないにもかかわらず、私たちは商品や労働の属性として、そういうものが存在しているかのように行動しているのである。これは経済的な諸計算の基礎であると同時に、経済システム全体によって、こうした実体視が生じている。適切な廣松の文献が手元にないので、すんごくいいかげんですんません。

これは塩沢さんなどがいうところのミクロ・マクロ・ループの形になっていて、新古典派的な、あるいは、マルクス以前の古典派的な(あくまで価値論について)ミクロからつみあげていく方法では、ちゃんと分析できない。問題は主体の認識のありかたにかかわっていて、主体の認識(しばしば、錯誤や思い込みをともなう)から出発して、その認識にともなって生みだされる行動が生成する社会をつくりだし、それがまた当初の認識を生み出すという構造を分析する必要がある。廣松の『弁証法の論理』とか、難しくてようわからんので、弁証法自体は理解していないのですが、価値の分析が方法論的個人主義では分析できない理由はだいたい、こんなところと理解してます。

「貨幣の必然性」は別に弁証法的に説明される必要がない(まえふり、その2)

(書いてるあいだに、文体がここからおかしくなってます。すんません)

廣松についていえば、『資本論の哲学』とか『資本論を物象化を視軸にして読む」とか読んでも、私の程度のあたまでは、以上のようなことは分りません。この二つは私にとっては、わけのわからん本です。前の節の内容は、『マルクス主義の地平』、『マルクス主義の理路』、『物象化論の構図』とかで理解したのです。

なんで、『資本論の哲学』や『資本論を物象化を視軸にして読む』がわかりずらいのかは、私の頭の問題を別とすれば、この二つが資本論にそって書かれているからだと思うのです。資本論にそって書かれると、資本論の重要な問題意識である、貨幣の生成を弁証法的に展開するという部分にふれざるをえません。はっきりいって、貨幣が市場において、どうして必要かというのは、弁証法的に説明する必要がまったくないと思うのです。

新古典派でいえば、清滝=ライトの議論がありますし、置塩信雄が『経済学はいま何を考えているか』でしている議論もありますし、市場において貨幣がないと困るという話は方法論的個人主義のレベルで十分にできますし、資本論の解釈史みたいな話は私は無知なのですが、資本論の貨幣の必然性の議論の流れは、実際上、「AでこまるからB、BでこまるからC、CでこまるからD、Dでもこまるから貨幣が必要」という形になっているじゃないでしょうか。それは論理的には、「Aでも、Bでも、Cでもだめだから、貨幣が必要」といっていることと同値で、別に弁証法的に考えなくてもいいんじゃないかと思います。(貨幣に関することがらで、弁証法的に考える必要があるテーマがありうることは否定しません。ここでは、議論を市場経済が貨幣を伴なわなければならないことに限定しています。)

廣松は、資本論弁証法的にいう必要がない議論もむりやり弁証法的に説明しようとする無理にひきづられているというのが、私が廣松の議論を十分に理解できないことのいいわけです。

それでいいたいことは、資本論全体は弁証法で説かれてますが、別に弁証法でいわなくてはなくてもいいことと、弁証法なり方法で、経済のミクロ・マクロ・ループを分析しなくてはならないことの両方があると思うのです。

(以上のまえふりは、主に「「「復元論」と「分化発生論」について―宇野弘蔵と山口重克の方法論をめぐって―」にかかわります。)

冒頭商品論はエッジワース・ボックスに載せられるか

ここから、新田さんの論文の中身にはいります。新田さんは別の論文ですが、「価値形態論と物神性論」のなかで、廣松および柄谷行人の価値形態論に以下のような批判をしています。

http://ir.lib.ibaraki.ac.jp/bitstream/10109/1570/1/20100198.pdf

むしろ、逆に、理想的平均、一般均衡を前提して、貨幣への「命がけの飛躍」を括弧に入れられると考えることこそが、古典派・新古典派理論の特徴なのである 。

しかしながら、資本主義的市場経済とは、そもそもが「命がけの飛躍」にみちたものなのであり、「不断の不均衡の不断の均衡化」としての価格変動が常態的な世界なのである。

とりわけ、廣松については、私自身が新田さんと同様の不満を感じていて、この批判にはとても共感しました。

他方で、私が問題にしたいのは、新田さんの価値形態論への提案では、このような市場の認識は、価値形態論から消滅してしまうのではということです。

新田さんの「宇野理論と限界原理」において価値論をエッジワース・ボックスにのせることが、重要な提案のひとつです。現実の市場がどうなっているかが、提案の妥当性の評価につながると思います。

はじめに同意できることをいうと、現実の市場での取引がエッジワース的なものであれば、価値の実体が限界効用あるいは「限界効用÷価格」とするのは、論理的にまったく正しいと思います。従来の労働価値説との整合性が問題になりえますが、少なくとも搾取に関しては、三土修平さんあたりが、限界原理が成り立つ場面における搾取論を議論していて、肯定的な結果がえられています。

問題は価値論の場面として、エッジワース的な交換を商品の売り手と買い手がしているという想定が適当かどうかです。これには私は否定的です。

宇野派の新田さんにいうのは釈迦に説法なのですが、価値形態論は売り手が自分の商品に値札をはって、買い手がその値札に同意するとき、交換が成立する状況を記述しています。商品の売り手と買い手には非対称性があります。

これはわれわれの日常的な市場で経験することですが、その非対称性の根拠には売り手と買い手が対照的でないことがあると思います。たとえば、スーパー・マーケットやコンビニエンス・ストアで私たちは売り手が値札をつける売買を経験します。この市場で売り手は同一の商品を多数の売り手に販売します。逆に山谷や釜ケ崎のよせばでは、同一の労働力の買い手が多数の労働力の買い手に値札を提示する場面がみられます。企業がひとりの労働者をヘッド・ハンティングするような場面では売り手が一方的に値札を張るようなやりかたは行なわれないと思います。

こういうことを考えると、売り手が値札を張る状況は多数の買い手が個別には小数の商品を購買し、売り手が多数の商品を販売する状況に即していると思います。つまり、価値論は、おそらく多くの論者が想定しているような一つの商品を相対取引する場面ではなく、資本家的な商人や生産者が多数の買い手に商品を販売している状況と考えるのが妥当のように思います。

コアの収束定理について

もう一つの点は、いったん、エッジワース的な交換として、市場をとらえてしまうと、「不断の不均衡の不断の均衡化」といったことは、分析から消えてしまうのではないかという疑念です。

エッジワース的な市場で取引における人数と財の種類が増加していく過程で、おこりうる競争の結果が新古典派における競争均衡に収束していく結果はコアの収束定理として知られています。これが厳密に成立するのは、財の数、主体の数が無限大の場合で、実際には競争均衡に近いパレート集合におさまることになるでしょう。その範囲で「不断の不均衡の不断の均衡化」があるといえるかもしれません。

ただ、それは均衡であって、しかも、新田さんは交渉集合上で取引されることも受け入れているのですから、静学的な状況を考えれば、主体の予算制約上で均衡が実現します。そのような状況を不均衡とは、すくなくとも大方の新古典派経済学者は見做しませんし、それが価値論がもちえている市場観をささえるものとはなりえないと思います。

主体均衡概念の強烈さ

新田さんは主体均衡概念の強烈さを過小評価しているというのが、私の印象です。マルクスの価値形態論の特質は売り手と買い手の非対称性を市場の特質として正確に把握し、それを市場認識の基礎においていることです。それは「不断の不均衡の不断の均衡化」という認識を可能にしています。

ただ、主体均衡が成立してしまえば、市場において売り手が値札を張るというということをしていても、不均衡は可能なコアの範囲におさまります。「不均衡」はせいぜい、競争均衡と現実のコアの誤差の範囲におさまります。このような経済がマルクスの価値形態論の長所を生かしているとは思えません。

ただ、逆に私が新田さんに共感しているのは、方向は私が受け入れられるものでないにせよ、明確なメカニズムを想定した上で価値論を再構成しようとしていることで、私が批判できるのも、明確な議論をされているからです。

私は「価値論と物神性論」での廣松・柄谷批判を全面的に賛同します。そこで明確にされたようなマルクス価値論の特質がマルクス経済学に十分に生かされていないとも感じています。つまり、「不断の不均衡の不断の均衡化」が経済システムにおいてどのような役割をはたしているかです。私はそれを明確にするには、新田さんがしたように、経済メカニズムを想定して分析することが不可欠と考えています。

私がそれを生かす一つの方向と考えるのは、均衡化がそもそも無理な状況で人間がなにをするかです。それはサイモンが限定合理性を強調し、手続き合理性にゆきついた方向です。限界原理と関連していえば、例えば、ほとんどの企業は自分が直面する市場の需要の価格弾力性を知りません。そのような状況で(よくはわかっていない)限界収入と限界費用を一致させるような価格を設定することは、きわめて危険なことです。通常、ほとんどの企業はちいさな需給状況の変化には価格をおおきく改訂することはなく、数量調整を行ないます。

エッジワース・ボックスに関していえば、相対取引において、互いに効用関数を知っている状況ではナッシュ交渉解という均衡が知られています。そのような実現可能な一種の主体均衡が存在します。しかし、現実には相手の効用関数などはわかりようがなく、たとえ、なんらかの推定手段があったとしても、その推定の誤差によって、大きな失敗があるとすれば、それを主体はさけようとする可能性が大きいと考えられます*2

現実の経済の環境を考えれば、主体均衡を追求することは、限定合理性のもとで、それほど「合理的な」ことではありません。むしろ、限定合理性のもとで不確実性*3を避ける行動なり行動の枠組みが必要になると思われます。

このような方向はマルクスを含む古典派やケインズ派の「ミクロ的基礎付け」になるでしょう。また、限界原理を基礎をした新古典派経済学への明確な批判を導くと思います。

「「復元論」と「分化発生論」について」がらみのことは、また近日中に書きます。

*1:影響をうけすぎるとしばしばあるものですね。

*2:ルビンシュタインが計算量が限定されたもとでの最適化行動を厳密に議論しています。その結果は計算量の限定を前提とした最適化問題はもとの最適化問題より、かならず、計算量が大きくなるという結論です。この結果が限定合理性についてどれだけ一般化されるかはわかりませんが、ある種の限定合理性を仮定したモデルの結論が常人にはほとんど計算不可能な解を導くことは、それほどめずらしいことではありません。

*3:新古典派の想定するようなリスク回避ではなく