センセイはサムエルソン先生くらい頭が悪いと思います。

えーと、山形浩生センセイ*1のネタなのですが、もう、コバンザメをしようとは思っていません。ここでは、近代経済学というか非マルクス経済学の素養の高い人が、一般的にマルクス経済学をどのように誤解しているかのサンプルとして、山形センセイを、皮肉ではなく、敬意を表しつつ、取り上げさせていただきます。

センセイは以前、資本論の翻訳をはじめたとき、「山形浩生勝手に広報部部室」にこのように書かれました。

http://ruitomo.com/~hiroo/bbs/kohobu0057.html#kohobu20040316182119
ついこんなの始めたんですけど(アダムスミスはどうした、というつっこみなしね)、
○経方面でこの労働価値説のそもそものインチキぶりって何か言われてるんでしょうか

そして、山形センセイの翻訳された資本論の脚注を読むといやみたっぷりの解説があります。要は、山形センセイはマルクス資本論の最初の部分の労働価値説の証明をデタラメだとおっしゃっているわけです。おそらく、資本論の初めの部分を翻訳して、「マルクス頭わりー」の印象で、うえのような「労働価値説のそのもののインチキぶり」という発言にいたったと想像します。

掲示板にこられた方々から、これに返答するコメントがなかったようなので、私が超亀レスとして、資本論なんて10年くらいまともに読んだことないのに返答しますと、宇野弘蔵という人はおそらく、山形センセイと同じような疑問をもち、資本論の初めで労働価値説なんか証明できんやろといいました。よく憶えてないのですが、宇野氏はそれをマル経学者の座談会で初めて公に発言したとき、座談会が紛糾し、活字にできない状態になって、座談会がやりなおしになったと聞いております。

それで、宇野弘蔵は労働価値説を捨てたかというと、そうではなく、あくまで私の理解なのですが、近経的にいえば、生産技術つまり、各生産部門での要素投入係数と労働投入係数があたえられれば、労働価値は計算できる。逆にいえば、財を二つならべて、労働価値をうんぬんするのは無意味だけど、経済の中でどのように財が生産されているかを前提にすれば、正しい労働価値説が導けることを主張しました*2。したがって、宇野弘蔵にしたがえば、労働価値説の論証としては資本論の最初はクソであるという山形センセイのいわれることはもっともだけども、労働価値説自身がそれによって否定されるわけではないことになります。

では、労働価値説自体は理論として正しいのでしょうか。これについては置塩信雄森嶋通夫、サムエルソン、スラッファといったエライ先生方が議論していて、一応の決着がついています。一言でいえば、労働価値説は正しくない。労働というスカラーで財の価格をはかるなんてええかげんだ、ということです。転形問題やらなんやらありますが、私自身が説明できないので削除。とにかく、労働価値説はインチキといえば、インチキなのです。

しかし、この論争は労働価値説だけが問題になっていたのではなく、とりわけ、資本財をスカラー量で測ることの妥当性と結びついていました。したがって、こうした論争の結果として、国民所得も理論的には労働価値説とおんなじ位いい加減という結論が導かれました。これらは論争自体は込み入っているのですが、要はそれぞれの財を生産する技術がことなっていれば(普通、異なります)、いろんな財を測る単位をスカラーにしてしまうと、集計上こまったことが起きるということです。

ところが、こまったことにこの単純な論争は政治的な論争の側面をもっていました。時代は冷戦のまっただ中で、経済理論の正しさが、共産主義と資本主義のどちらを支持すべきかという政治的問題と同列に扱われていました。アメリカの経済学者たちはマルクスをバカにしながら、GDP単位で成長をはかる新古典派成長モデルの妥当性を擁護しました。マルクス経済学の人達は上の議論で新古典派のモデルが否定されたことを強調して、同じ論法で労働価値説が否定されることを棚あげにして、新古典派どもはアホだという論陣をはりました。今から見ると、どちらも、頭わるそーですね。

前者のGDPを支持して、労働価値説をけちょんけちょんにした代表的人物はサムエルソン先生です。彼の「経済分析の基礎」の増補版の付録にはマルクスの労働価値説のモデルの説明があります。マルクスをけちょんけちょんしながら、新古典派成長モデルは擁護しつづけました。頭わるそうですね。そういう観点からみれば、労働価値説を支持し、GDPを使うのに躊躇のない山形センセイもおんなじくらい頭わるそうなのです。ただし、サムエルソン先生と同じくらいなのですが。

私自身は今の観点から見れば、どちらでもない立場もあったのではと思います。ようするに、GDPも労働価値説も便利なら使っていいやんという立場です。労働価値説に問題があるといってもGDPとおんなじくらいなのですから、それで経済を分析しても、マクロモデル程度には現実的なことがいえるはずです。確かに、統計的手段としては、GDPより使い勝手が悪いでしょうが、理論で不正確さを自覚して使う分には問題ないでしょう。理論で労働価値説を使う方々は減る一方ですが、「GDPをつかうやつらは労働価値説に文句いうな」をスローガンにがんばって欲しいものです。

さて、では、山形センセイけちょんけちょんの資本論の冒頭はまるっきりクソなのでしょうか。多分そうではありません。宇野弘蔵は労働価値説の論証を資本論の最初の部分つまり価値形態論からきりはなしました。それによって、労働価値説と関係なく、マルクス資本論の最初で扱いたかったことが明確になりました。それは今日の続きのエントリで説明します。

*1:山形さんのお気持は想像で察するしかないのですが、私同様、先生とよばれるのは嫌いと想像して、敬称をセンセイとします。

*2:宇野派のみなさん正しいでしょうか