「百円でポテトチップスは買えますが、ポテトチップスで百円は買えません」

えーと、マルクス経済学をよく知っている人にけちょんけちょん覚悟で続きを書きます。題名にあげた「百円でポテトチップスは買えますが、ポテトチップスで百円は買えません」とは、昔カルビーのコマーシャルでまだ10代の藤谷美和子がしゃべっていたコピーです。糸井重里作と聞いております。糸井氏はファンには割と知られているのですが、学生時代、宇野派というか、若き日の青木昌彦氏の経済理論分析に影響を受けた某左翼団体のシンパまたは活動家であったそうです。たぶん、このコピーの大本は宇野弘蔵でしょう。

宇野弘蔵資本論の価値形態論のエッセンスと考えたのが、「百円でポテトチップスは買えますが、ポテトチップスで百円は買えません」という商品の売買にまつわる形式、つまり価値形態です。資本論の最初では「リネン20 ヤード=上着1 着」なんていう等式がいっぱい書いてありますが、これは厳密には等式ではありません。上の等式では上着の所有者が上着に「リネン20ヤード」という値札を張っている状況を記述しているのです。上着の所有者が全員、「リネン20ヤード」という値札を張っていても、リネンの所有者に上着をもっていっても、リネンが買えるわけではありません。資本論の最初で扱われている問題は値札を貼るという行動がどのような意味をもっているか、そして、それがどのように単一の貨幣を生み出していくのかというプロセスだろうと思います。

マルクス経済学、俗にいう近代経済学では経済学の最初に値札を貼るという行為は注意深く排除されています。人々は自分の判断で値札を貼るのではなく、市場で決められる市場価格でモノを売り買いするというフィクションを構成してそこから議論を始めます。通常のミクロ経済学の学習において値札を貼るという行為はまるっきり取り扱われないか、扱われるとしても、比較的高度な応用問題として登場します。マルクス経済学ではそれがむしろ、経済分析の始まりとして想定されているわけです。

追記

初出でポテトチップスを「かっぱえびせん」としておりました。松尾匡さんの指摘にもとづき調査(藤谷美和子 - Wikipedia)の結果、誤りがわかりましたので、訂正します。