経済学と数学(or 経済学と実存)

はてなブックマーク - rajendraのブックマーク / 2006年12月18日
潜在需要はあると思うけどな。数式に最初から壁を作ってる層をどう取り込むか。

経済学をブログに書くのってこのことが、ネックになります。数学についてはこのブログが半閉鎖状態であったころに一辺かいたんですが「数学を逃げて経済学部にはいってしまった学生さんたちへ - 痴呆(地方)でいいもん。」、もう一度とりあげます。

このブログのアクセス解析してみますと(googleでやってます)、もう山形さん、田中くん関係のネタが上位なんです。そういうのに興味ある方にも読んでもらえるのはうれしいんですが、まあ、これまで読んでくれた方のならわかると思うんですが、そのあたりの話が私にとっての経済学の中心の問題ではないのです。このブログのどっかにうもれている田中くんへの説教にも書いたのですが、私は基本的に、自分でもよくわかっていない実存の問題があって、それが何かさぐることも含めてあーだ、こーだ経済学の問題を考えているのです。

それで、自分とおんなじ問題もっている人に読んで欲しいというのではなくて、おおげさにいえばその人自身の実存問題のようなものを経済現象とか、労働とか、所得とかそのへんに感じている人とときどきお話できれば、それが自分と違う問題であっても面白いかなと思うわです。それがない人にとやかくいう気持ちはなくて、基本的に実存的な問題のようなものは病気であって、そもそもそういうものを持っているからエライというものではないのですが*1、アル中のひとが断酒の会とかを必要としているのとおそらくあんまり変わらない理由で、学問の話するなら、そこに同じ病気の人がいればいいなと思うのです。

そこで問題があって、経済学をすらすら理解する人と、経済現象に実存問題を重ねるひとは全然一致しないのです。
[研鑚]稲葉振一郎『経済学という教養』 - 静養の間のコメントでも書いたのですが、いわゆるマルクス経済学者で「お前経済学わかっとらんだろ」といいたくなる人がときどきいます。マルクス経済学と近代経済学の対立とよばれているものは大半が相互の相手への理解ぶそくですが、何分の一かは、このそもそも経済学をわかっとらんマルクス経済学者の発言にあります。もちろん近代経済学者でもいるわけですが、近代経済学者のそういうタイプは就職ルートとして大学院いって経済学わからんままに大学の先生になっちゃった人が多いように思います。(自分のことか?)でも、マルクス経済学やってて経済学しらない人というのは、経済学する動機は実存問題なんだけど、それを理論とかあるいは国民所得なり労働価値なり経済をめぐる数的な現象に結びつけられない人なんだろうと思います。そういう人は近代経済学を批判するのが大好きで、また、マルクス経済学でも置塩信雄とか、宇野弘蔵とかわりとかちっとした理論を攻撃するのが好きです。私が偏見をもって彼らの主張を翻訳すると「俺の実存の問題がそんな屁理屈で解消するわけねーだろ」といっているわけです。

そんで、へそ曲げて欲しくないのですが、そういう人にもできれば、私の書いたものときどき読んで欲しいなと思っているのです。このての話の材料になることはいろいろあるのですが、「二つの正義 - 痴呆(地方)でいいもん。」で書いた話、つまり、経済学者はふたつの価値観のバランスをとることばかりいうわけです。たとえば、可愛い子供が二人いて、どっちか一人しか救えない、自分でどちらかの子供を選ばなくてはならない。こういう状況に対してスタンダードな経済学なら、「それぞれの子供について、生存した場合のあなたにとっての便益(感情的なものも含む)と費用を評価して、便益マイナス費用の大きい子供を選びなさい」なんてのが答えになるわけです。このような問題に直面している人にとって、こんなもんが答えにならないのは明白なのです。だけども、そういった状況にきちんと直面しようとしている人は逆に経済学の悪口などいう余裕はないのです。そうではなく、自分が置かれている具体的な状況、たとえば自分がなぜそうした選択をせまられなければならないかとか、その状況をひっくりかえす可能性はないのだろうかとか、とにかく具体的な状況についていろいろと考えるはずです。自分にとってある程度せっぱつまった状況にいる人間はとにかくその状況を理解しようとするでしょう。

私にとって経済学の中心の問題は人間の生存の問題です。ひとつはこれほど生産力が高いにも拘らず、飢餓をふくんだ貧困がありつづけることの理不尽さ。もうひとつは、にもかかわらず、多くの人間の生存を現に経済システムがささえていることの不思議さです。どうしてこういった問題に心がひかれるのか自分でもよくわかりませんが、ある時期にこうした問題を考えるとき、具体的な物の流れというか、誰が何個たべているかとか、具体的な状況を考えないとほんとに阿呆だなと実感した記憶があります。その実感というのは、自分にとってまだまだ十分に育っていないとも感じていて、例えば私は先進国の経済政策に無関心です。先進国の貧困問題なら、ひきつけられるのですが、日本全体の景気の話って、理屈の上でなく、体がああどうでもいいやんというのです。でも頭では先進国全体の問題と局所的な貧困の問題が切り離せないことはわかっています。私のこの態度はどっかでどうしようもなく、現実を避けている部分があるのだなと感じています。

話はそれましたが、それで漠然とそういう実感が芽生えるようになって、それまで私は新古典派をよくしりもしないでバカにして喜ぶようないじけた人間だったのですが、ちょっとづつですが、理論の中身をちゃんと理解しようとする態度ができてきたと思います。それで、ネットを見回すとこのブログからわりと離れたところで、実存どろどろに社会のことを語る人達がいます。もしそういうところの人がこれをみてたら、こういいたいのです。あなたの問題が不平等とか貧困とか社会の理不尽さの問題なのでしたら、あなたは誰がいくら物を買うか、貧困をなくすためにはどれだけ物をつくらないといけないか、それを困っているひとにとどけるためにどういう制度が必要か興味がないですか。もし、そのような問題を考えようとしながら、物の流れの問題を無視しているのなら、それは現実を避けた態度なのです。あなたが知りたい現実を理解するためには、それほど高度でないかもしれませんが、ある程度の経済学とか数学の知識は必要です。もしあなたがどうやってそうした勉強を始めればいいのかわからなければ、このブログに来てくれれば、私はできる限りの努力はします。そして、あなたが来てくれることは私にとってとてもうれしいことです。てはじめに「なぜ経済学をするか - 痴呆(地方)でいいもん。」でもよんでもらえればうれしいです。

*1:岩波文化なり朝日文化なり、実存もってんのがエライという気持ち悪い種族が日本においては既得権益を持っている不幸な事情はありますが。