人工無能
試験監督をしてて、他の教官の試験のある問題の回答をみていたら、どの学生の回答も人工無能のようだった。「○○を説明しなさい」という問題なのだが、必要キーワードはそろっているに、文章として何も説明していない。
それで思ったのだが、一部(多くの、あるいは、ほとんどの?)学生にとって、授業を聞くというのは人工無能の読み上げた文章を聞くのと同じでなのかもしれない。いかにも学問風なキーワードがたくさんでているけど、自分にとって意味不明の文章を聞く。そして、聞く人がその文章の意味がわからないのが、コミュニケーションの齟齬でなく、そもそも、文章に意味があると思ってなければ、それは人工無能と等価だろう。
そう思うと授業を聞いていて、思いあたることはあって、練習問題の説明は聞くけど、あとは全然聞く気のない学生というのはけっこういる。教員どうしで話をするとき、やる気がないとか、問題さえ解ければいいのかとか、そんな話になるが、そもそも、授業ではなされていることが、内容がない、人工無能と等価であると思われているのなら、学生が授業を聞かないのはむしろ正常である。
それでここまで書いて思いあたったのだが、すでにここで書いた人工無能仮説とたぶん実質的に同じことを書いてある本があるのを思いだした。「“子”のつく名前の女の子は頭がいい」である。はじめて聞くひとは、題名からいかがわしい本と想像するかもしれないが、きちんとした社会学の研究書である。そこでは自分の反応に無関心な情報に2世代つづいてさらされると、2世代目はコミュニケーション能力を喪失するという仮説を提唱して、それとつじつまのあう統計的事実があることを指摘している。あ、毎度だけど、本手元になくて書いているんで、まちがってたら教えてね。
“子”のつく名前の女の子は頭がいい―情報社会の家族 (新書y (045))
- 作者: 金原克範
- 出版社/メーカー: 洋泉社
- 発売日: 2001/11
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あー、それと西部邁も「大衆への反逆」でヤコブソンとか引用して、学者のふるまいについて似たような話をしていた気がする。
- 作者: 西部邁
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
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それで私も社会科学の科学者の一人なので*1、自分の仮説を実証する手段がないか、実証する手段を考えてみた。それは自分の授業で経済学のテキストを素材を人工無能にかけた文章をあたかも、意味があるかのように話してみて、普通にはなしたときと、試験のできをくらべてみる。
それと、学生に他人を人工無脳としてあつかうかどうかのテストも必要かもしれない。入試の小論文で人工無脳にかかせた無茶苦茶な文章と人間の書いた文章を読ませて、小論文をかかせて答案の違いをくらべてみる。
えーと、また妄想モードですね。ちなみに最近、一番ウケた人工無能的プログラムはこれ。再読み込みを何回かくりかえしてみてください。
催眠術師マシーン
*1:思っているのはオレだけか