教育問題としての疑似科学

えーと、poohさんに対してきちんと応答したいと思って読みはじめたんですが、いまだ、poohさんへの応答が書けないまま、疑似科学のことばかり考えています。

それで、あたり前の発想なんで、もうどなたかが考えているのかも知れませんが、水伝って、教育の自治というか、理想的には生徒(あるいはその保護者)が教育をえらべるとしたら、あんまり問題にならないと思うのです。ようは親や生徒が選択できない状況で水伝おしえられるのが問題で、親が自らえらんで水伝教師に道徳教育を依頼したとしたら、それはそれで問題ですけど、全然ちがう問題になるでしょう。

道徳なりなんなりって、それを教育の場でとりあげるかどうかも含めて、基本的には個人の選択がないところでやられると水伝にかぎらずロクなことないと思うのです。あくまで個人的な意見ですが、道徳もふくめて、個人の行動基準って自分で選択するのが本道であって、教育もふくめて、他人の助言って「こういうのいいんだけど、やってみない。はぁー興味ないですか、さいですか」以上は無意味だと思うのです*1

基本的には本人が主体的に疑似科学にかぶれる場合、他人に迷惑をかけない範囲では、他人のできる対応は「ちがうんだと思うんだけどなー」でしかないんじゃないでしょうか。これは価値観の問題でなく、私もなんですけど、疑似科学的なものに何回かひっかかって身にしみて分かるまで、疑似科学的なものに魅かれつづけるでしょうから、経験による学習プロセスを他人が邪魔するのはよくないように思うのです。もちろん、この学習プロセスで「ちがうんだけどなー」という周囲の助言は役に立つし、疑似科学の害が本人にとどまるようなサポートは重要でしょうが。逆にいえば、そういう生徒の試行錯誤ができる環境で水伝教師に出会ったとしても、生徒に関しては学習機会が増えただけで、そんなに悪影響はのこらないように思います。]

理想論は別として、現実の水伝教師をどうするかということですけど、従来のカリキュラムの中で、上記の経験による学習プロセスをサポートする方向を押すというのも一つの方法なのでは。厳密な科学的思考うんぬんを別として、「水がきれいな結晶つくるから、ありがとうをいいましょう」って、イメージで洗脳しているだけです。子供がコマーシャル見て玩具買いたくなるのと全然かわりません。イメージによる洗脳が道徳教育の主要な手段になっていることを水伝問題は明らかにしてます。私は理科系教育がらみ以上にこちらの方面で問題と感じます。そうではなく、本人の動機にそって、社会的に受けいれやすい行動のメリットを教える方法はいくらでもある。「ありがとういうと、お母さんをおやつをふやすと思いますか?減らすと思いますか?」とか、「あなたが親切にされたとき、A君はありがとうをいいました。B君はなにもいいませんでした。もう一回親切なことをするとしたら、どちらにしたいですか?」とか、いくらでも「ありがとう」のありがたみを教える方法はあるのです。現実に生徒が人間関係で困っている状況で挨拶のメリットについて考えてもらうなんてのも可能でしょう。このような「道徳教育」であれば、疑似科学が入りこむ余地はあまりありません。あ、あんまり現実的でないですか。そうですか。すいません。

ついでに電波だけど、私は理科系の本当の素養って、こういう経験にから学習することのように思います。私が20年経済学やっても、数学あたりに関して阿呆なのはこのあたりの修行が全然できとらんことにもあるように思います。

*1:あ、自分のこと棚にあげています。ゼミ生のみなさま、一郎君、芙美さんお詫び申しあげます。