カルトな私

このエントリは多分、一部の人にはオウム真理教がらみのトラブルと同種の出来事と解釈されるかもしれない。その一方で、コメント欄やブックマークの反応から、私の見解への賛否は別として、確実に真摯に受け取ってくださる方がいるという信頼の元にこのエントリを書き始めている。疑似科学関係のエントリを書きはじめた時点で、私はこのようなことを書く必要は感じていなかった。家内に関連してプライベートなことを書いたときも、必要性を感じていなかった。しかし有用性のある「トンデモ」について - 痴呆(地方)でいいもん。でカルトという表現を使ったあと、カルトに関わることを書いてしまったからには、なんらかの形で自分の体験を書くのがエントリを読んでくださった方々への責任のように感じた。

私は2年間に渡って、グループの成員の大半が同一の宗教グループに属している一種のボディワークと瞑想を行うワークショップに定期的に参加していた。その宗教グループを明らかにはしないが、その名前を聞けば人によってはカルト宗教であると判断するかもしれない。この宗教グループがなんであるか私がいわない理由は主に二つである。私個人はすくなくとも、私が参加したワークショップで行われていたことがカルトであるとは現在も考えていない。だから、第一に、このような疑似科学あるいはカルトを議論する文脈で、その宗教グループの名前を初めて知る人が出てしまうのは不本意である。これはかつての仲間に対して申し訳ないというだけでなく、彼らに対して私は依然敬意を持ち続けており、もし、彼らのしていることに必要を感じている人がいれば、違う文脈の場で出会って欲しいと感じるからである。第二に、のちに書くように、私が体験したことは、私自身にとってそうであったように、カルト的なものに魅かれる心性をもった人に不用意に伝えることは危険であると感じている。したがって、そのワークショップで実際に起こったこと、私が体験したことについては、できるだけ抽象的に、かなり無理やり、ここ数日私が疑似科学問題を考えた際の枠組みに押し込め表現する。

私がそこでの体験について現時点での総括は、そのワークショップで行われていたことは確かにカルトとはいえなかったが、私自身は確実にカルト的精神状態といっていいものに落ち込んでいたということである。ワークショップの仲間あるいは指導者は、それに気がつきながら、様子を見るために放置していたことは、短い期間はあったように感じるが、ある時期からは、今から思えば明らかにそれを私自身が自分で気がつくように促していたし、私がワークショップを離れるときは、指導者ははっきりと「大坂さんのいる状況はオウム真理教と同じだ」といった。

グルについて

私の参加したワークショップのメンバーの多くは共通のグルに帰依していた。そのグルとはキリストや釈迦などの人物ではない。ようはそのグループは一般社会では新興宗教に分類されるものであった。このことだけで、私の参加したワークショップがカルトであった考える人もいるだろうが、グルへの帰依に関してカルト的傾向はまったくなかったと判断している。

まず、私自身がグルへの帰依を積極的に促された記憶がない。私は彼らの宗教グループに興味をもって根掘り葉掘りいろんなことを聞き出そうとしていたことがあって、その時に、そんなに興味津々だったら、総本山へ行けばいいと、からかい半分にいわれたことがある。また、ワークショップの指導者に、一度だけ、先にいったカルト的精神状態がかなり悪化している時期に「○○(グルの名)をもっと信頼すべきだ」と言われたことがあったが、これは、グルへの帰依を説いたのではなく、このようなワークショップに参加するのなら、ワークショップへの場への信頼なしに参加している状況を憂慮しての発言だったように感じる。

第二に、そのグループにはカルト宗教で問題になるような組織形態をまったくともなっていなかった。ワークショップの指導者が、教団のもっと上の階層から指示を得て、方針を変えるような場面は一度もなかった。ワークショップの内部でさえ、指導者は尊敬は得ていたが、指導者自身が自分が他のメンバーよりもグルに近いことを匂わすような発言は一切なかった。このような小さな集団でメンバーが個人的に指導者へ依存する心理はあり、そうのような気持ちがどちらかといえばネガティブなものとして告白されることはあったが、指導者はそれをグルないし、グルの示す道への信頼の問題に言い換えたのちに肯定していた。さらにいえば、指導者はしばしば、本人の前でも、ジョークのネタにされ、「瞑想中に指導者のイメージが表われ、ぶん殴ってやった」ということを何度か発言するメンバーもいたし、一度、宿泊施設の食事がまずかったときに指導者がキレたときは、何人かのメンバーにあからさまに笑いものにされていた。

第三にお金の面でいえば、ワークショップの値段はその手のものとしては破格に安かった。指導者自身、収入に占める割合はわからないが個人事業主のような種類の仕事をしていた。指導者に限らず、宗教グループに属するメンバーはみな定職をもっていた。布教活動のようなものは、ホームページの作成を除いて一切していなかった。また、教団に対する上納金のようなものは、グルの著作等への著作権料的性質の物以外にはないのではないかと思う。

第四に、これはワークショップをやめてから気がついたことなのだが、問題の宗教グループではそのグループが個々人とグルの仲介をしているという意識自体が希薄であった。あくまで、グルへの帰依は個人とグルとの関係であり、それもグルは何かを命令する存在ではなく、基本的には個人の本質を肯定するものとして受け入れられていた。

いわゆる神秘体験について

神秘体験と呼んでいいような自分にとって強烈な体験は最低3回はあった。3回ともオウム真理教の元信者が報告しているような神秘体験自体を目指した場で起こったのではなく、少なくとも自分にとっては事故のように起こった。そのうち1回は指導者が最後の一押しをするような形で起こった。

そのような強烈な体験が科学的にどういうものであるかという議論がなされることは一度もなかったが、たとえば、読心術というのは(しばしば無意識的な)コールドリーディングであるといった議論については指導者はある程度同意するのではないかと想像する。指導者はしばしば「あたりまえのこと」を強調した。人間なら誰でももっている、あたりまえの能力をきちんと使うことをしばしば強調した。多分、強烈ないわゆる神秘体験と呼ばれるものも、単なるトリックではないのかと聞かれれば、そういう人間のあたりまえの能力の発露という意味では、ワークショップの指導者は否定しなかったかもしれない。また、そういう体験をした当人である私にとっても、少なくとも、指導者の意図的な詐欺ででもない限り、私の体験したものが、科学的に説明可能であったとしても、その体験の価値が失われることはないと感じている。

むしろ、指導者はその体験がその人にとっての意味を問題にするように感じる。その神秘体験が単なるいわゆるオカルト的事実を体験したものに納得させるような意味しかなければ、そのような神秘体験は糞だというように思う。また、そのような神秘体験は有害だというと思う。

実際、今になって思うのだが、私の場合、ワークショップでの強烈な体験は、一定期間の実りをもたらしたのちは、少なくとも数年のスパンではあきらかに有害な側面があった。結論だけいえば、そうした神秘体験につながるものが人生の課題なりなんなりを解決するオールマイティであると受け取ってしまった。もっと、いえば実生活で何をしていようが、そういう精神世界的な部分でまっとうならば、意味のある人生が得られるような幻想を抱いてしまった。要は、私はまるっきりカルトと関係ない集団の中でカルトに陥ったのだ。

ただひと言いえば、神秘体験を引き起こすような精神世界系のものは容易にカルト化を引き起こす傾向はあるだろう。私のいたワークショップでも、カルトにはふれなかったものの、そこで行われていることの危険性にはしばしば言及した*1。また、この危険性をさけるため、受け入れる準備のない人に体験したことを語らないように言った。そのような危険性を自覚している集団でさえ、一部には個人のカルト化の危険はあるのだ。

カルト的心性について

カルト化した人間として、カルト的な心性は日常でごくありふれたものだと感じる。私はカルトの本質は宗教組織の側にあるのではなくて、現実への対応を避けて万能な解決策を求める一種の怠惰さと考えている。この意味ではその解決策とみなされるのは科学であってもよく、きくちさんが指摘する二元論的な疑似科学というのは万能の解決策を科学に求める人々が引っかかるカルトである。さらにいえば、弾さんは多くの人が科学的事実に基づいて考えるのではなく、信じるということですましている様を描写しているが、このことは、社会の多くの人々が、自分の生活の多くの場面でカルト的な思考法を用いているを意味していると思う。

いわゆるカルト集団というのは、こういうカルト化した個人の存在なくしては機能しえず、なおかつその組織の個々人の行動が現実から遊離し、その活動が周あるいは社会全体に実害を及ぼしている集団を指していると考えるのが妥当であろう。単にカルト化した個人の存在なくして機能しないという側面だけをとりあげると、我々の住んでる社会自体がカルトということになってしまう。

話は、ややずれるが、よくネットにカルト集団と健全な集団を区別するためのチェックシートのようなものが出回っている。思考がカルト化した経験のある人間として思うのは、あのチェックシートは思考がカルト化している人間には役にたたない。彼にとって、問題の集団のあたえるものは万能とみなされており、その集団に対してはほとんどの批判能力は失われているからである。むしろ、集団に対するその人個人の接し方を問題にした方が、カルト化した個人にとっては現実を認識するサポートになると思う。その集団を大事に思っていればこそ、その集団と健全な関係をもっているかどうかは本人に対しても、重要な問題である。問題の集団がカルトであるというのはその人にとっては受け入れがたいかもしれないが、「あなたのその集団に対する接し方はカルト信者と同じである」という指摘はある程度受け入れられる可能性がある。

ワークショップでの体験と私の科学観

私の最近のエントリーは科学主義的なというか、科学的アプローチを肯定する傾向が強いが、このような傾向はワークショップでの経験が強めたものだと感じている。ワークショップで強調されたことは「現実に直面する」ことである。むしろ、ワークショップをやめてからのことだが、私は自分のメシの種である経済学においても、実生活においても現実を認識することの困難さを強く感じるようになった。ワークショップに通っている間はむしろそのような問題はワークショップでの修行がいつか解決してくれるのではないかと感じていた。

それ以前の私は相対主義的な科学観をもっていた。私がはじめて科学についてまとまったことを考えたのは大学に入学直後に鬼頭秀一先生の科学史の講義を受け、その後、鬼頭先生の研究会でクーンの「科学革命の構造」を読んだときである。経済学についてまとまった勉強をするのはそれより後だったので、経済学については常に相対主義的な留保をしながら評価する傾向があった。

私は相対主義的な科学観の主張を退けてはいないが、明らかに物を考えるとき、現実に近づくことを核として考える傾向が強くなっている。それと同時に現実を知るということは非常に困難で、自然科学の対象にならないものはいうに及ばず、自然科学でさえ、完全には不可能なのだと意識するようになった。このことは良質な相対主義の核でもあるはずだが、私はこの困難性を実感せずにものを考えてきたのだ。ようは、悪しき相対主義のぬるま湯が心地よかっただけなのかもしれない。

それとすべての人にハッカー教を布教しようとする私の態度の源泉のひとつはワークショップの体験である。私は弾さんがいったようにハッキングのない人生、つまり、現実に近づくために自らの世界への作法を改変していく努力のない人生はつまらないと思っている。これはワークショップの場で体験したことと、日常の生活との落差の形で今も日々私が実感することである。これははっきりと私にとっては宗教的な観念であり、この部分に関しては私の宗教はきわめて不寛容である。

ワークショップからのからの離脱

最後に私がなぜ、ワークショップをやめたかについて説明したい。これを書かないと、カルト集団に特有の事例があっととか、カルト化した信者が邪魔になってやめたのかとかいろいろな妄想を広げそうなことが心配だからである。問題のワークショップはさまざまな外的な事情によって、定期的に宿泊施設で行う形態では続けられなくなった。それでも、私がワークショップの主要なメンバーの住んでいるところへ出向いて、彼らの活動に参加する可能性はあった(と思いこんでいた)。

そして、最後のワークショップの終了日前日の最後のミーティングミーティングの際、指導者から私の精神状態はオウム真理教の信者と変わらないこと、現在の私には責任能力自体ないことを指摘された。多分、彼は最後の機会だと思っていったのだと思う。当然、これは私が活動を続けることを拒絶する発言と受け取った。私は非常に取り乱し、というか、怒りを感じ、一日の日程の終了後に宿泊所のロビーいた指導者に、そのことについて今すぐ話をしたいと詰め寄った。ほとんど、ワークショップに関することで指導者が狼狽したことを覚えていないのだが、このときだけは彼は明白に狼狽していた。彼とワークショップの事務的なサポートをしているメンバーは一晩考えてから話したほうがいいんじゃないかといって、次の日に時間をとってくれることを約束した。その夜は自分はこんなアホのままで一生終わるのかと思うと悲しみと怒りがこみあげて、眠れなかった。ただ、考えていると自分の人生の問題というより、自分の人生がアホなのは自分の責任であるが、自分の長男の父親がアホであるということが、自分のアホが遺伝のように受け継がれていくのだということが、頭の中をぐるぐる回り始めた。

次の日指導者は約束どおり、ミーティングの時間を私のために割いてくれた。そして私は昨日のミーティングでの話しには直接触れず、私が昨晩、布団の中で頭を離れなかったことについて説明した。彼はそれについて、「あなたはいつか息子から本当にダメな親だったといわれるに違いない。ただ、その時、あなたが心から絶望していれば、それは子供に対する助けになる」という意味のことを言った。私はそこで、この意味を十分に理解できたと思えたわけではなかった。ただ、ぼんやりとこの意味を理解すること自体が自分の時間がかかる課題なのだと感じたように思う。とにかく、私はこの指導者の答えを聞いて、足を洗う決意をした。

自分は今でもこの「絶望する」という意味を理解したとは思えないが、ひとつの側面は他人の人生の問題の解決は自分が代ってあげれないし、自分の人生の問題の解決は神でさえ代わってくれないということと今は感じている。

ひとつ、付け加えたいのは、この時、私はもう金輪際、瞑想とかその手のものには近づかないと決意したのだが、その自分自身に対する約束を、ほんの数ヶ月で破ってしまっている。同じ宗教グループに属する、別の指導者のワークショップに参加している。したがって、以上のことは私がいわゆる精神世界畑といわれたものから足をあらったことを主張したくて、書いたわけではない。

なお、私は基本的にはコメント欄はよっぽどのことがない限り削除を行わない方針であったが、善意、悪意を問わず、問題のワークショップ、および、宗教グループ探し、それについての問い合わせなどのコメントは削除することを断っておきたい。

ついでに、私はいかにして梅田主義者になりしや - 痴呆(地方)でいいもん。でふれられている「十数人のグループのなかで自分のクレイジーさを受容される体験をした」はここで関係している宗教グループとは関係ありません。

*1:正確には私がワークショップを去るときオウム真理教に言及した。