権威としての科学

ふまさんと、だらだらとコメントで話していることと関係するのであるが、ふまさんのように疑似科学批判に批判的な心情の根本は科学者集団の内部のルールと科学者集団というか科学が社会で演じている役割のギャップにあるのではないだろうか。弾さんもしばしば指摘しているが、世間の多くの人々の科学に対する態度のひとつは信じることである。疑似科学は反科学ではなく、世間の人の科学的に見えるものをとりあえず信じるという態度につけこむことで支持をえている。これはきくちさんの指摘するところである。

どうして、このようなことが起こるのかというと、科学者が科学者集団の内部と外部で違う基準で行動している、つまり、科学者集団のダブルスタンダードにあるように思う。つまり、科学者は集団の内部に対しては個人は自由な試行錯誤をすることを主張し、外部に対しては知識の独占者、権威者としてふるまう。いそいで、付け加えたいのは疑似科学批判をしている人は基本的にはこのダブルスタンダードを是正する活動をしているわけで、基本的には疑似科学批判をする人を十把ひとからげで批判するつもりはない。

ただ、最近の私の依拠していた議論も含めて、ブログ周辺で疑似科学と対置される科学は科学者集団内部の規範としての科学であり、科学が権威として、つまり、科学の正統性の根拠である絶えず自らを修正することへの抑圧として社会全体で機能している側面はあまり議論にのぼらない。

われわれが試行錯誤を必要とし、絶えず世界に対する認識や作法を改定しつづける作業が必要なのは科学が対象としている分野だけではない。科学の方法ではなく、社会的存在としての科学が個々人の自由な試行錯誤に対する反動としての側面があり、疑似科学さえもそれによって助長されていることは否定できないと考える。

私はふまさんが疑似科学批判に関して、科学者に多くを期待しすぎていることに異議をはさんできた。それはひとつは疑似科学批判をしている人はすでにこのダブルスタンダードを抑止する活動をしているのだし、彼らは科学者の立場としてするべきことをしているように感じる。だが、ひとついいたいことは、社会的存在として科学が個々人の自由な試行錯誤の障害になっている側面はなにより、科学者自身(ここではもちろん私を含めて社会科学者も入る)の問題である。

私は何も科学者に社会運動をしろといっているのではない。私がいいたいのは科学者の多くは教員であることである。そして、大学という組織の運営者でもある。教員として、大学運営者として、科学を権威ではなく、現実を知ろうとす運動であることを学生に伝えること、そして、科学の場たる大学が、教員にとってだけでなく、学生にとっても試行錯誤の場であるようにするために努力することは、社会運動などより、意義のあることと思う。そして、本質的には教育のこのような側面が社会にとって最も価値ある側面だと信じる。繰り返しになるが、このことは社会的問題であるが、自分の専門が自然科学である理由であること理由に他人にまかせることはできない。

空想に思えるかも知れないが、もし、人間が過去から培った科学がそうした自由な試行錯誤の結果であり、また、個々人が自らそのような試行錯誤の楽しさをつんだとすれば、社会は科学や学問に対して、権威による盲信ではなく、まっとうな信頼をよせてくれるように思う。それは科学者にとっても望ましいことだし、「権威の失墜」に対しても十分にペイしないだろうか。私はすくなくとも教員として、する仕事があると今感じているし、この仕事の仲間が増えることを期待している。