もっと危険じゃねーの?

疑似科学関係とかで道徳教育がらみで、水伝の人とか、スピリチュアルのあの方だの、よく名前があがりますが、どうして、
斉藤孝
の名前があがらないのでしょうか。

私の学生で親が斉藤孝にはまってしまったのがいて、図書館から斉藤孝のこの本↓あたりを何冊も借りられて、読まされ、あげくのはてに、「呼吸法もってきたー」と泣いています。これは斉藤孝自身の責任があるわけではないですが、構造としては、親がカルト宗教にはまって、宗教を強制されるのとあんまり変らんように思います。

ちゃんと確かめてないのですが、その学生の証言によると、「ゲームは良くないけど、文学作品はいい」、「漫画の中にはよいものもある」等、まあ、ようするに例のゲーム脳とかわらん議論があるわけです。

問題なのは、斉藤孝の主張がしばしば、明治大学の教育学の専門家(教育学部の人でないとはじめて知りました)として流通していることです。うかつだったので私自身斉藤の本を買ったりしたことがあるのですが、少なくとも私が読んだ本に関しては、あれは斉藤のいろいろやったという報告であって、たまには教育上の実践のはなしをしてますが、すくなくとも統計学的事実としては「魔法の壺かったら水虫がなおりました」以上の説得力はありません。

と、ここまでで、話をひっくりかえすのですが、斉藤孝の批判を疑似科学の人に要求するのは、無茶というものです。彼は別に擬似科学ではないのです。つまり自分の主張に(擬似)科学的うらづけをしているわけではありません。だけども、彼の主張はほとんどゲーム脳とかわりませんし、彼の教育上の成功も統計学的には女性自身のイカサマ広告とおなじです。水伝は(擬似)科学的な主張をしたためにたたかれましたが、もともと、疑似科学でない教育ネタってかなりがトンでもではないでしょうか。百ます計算とか、頭がよくなる何とかとかありますが、万人の学力をあげると実証された教育法なるものはいまだかつて発見されたことがありません。まあ、そういう意味では、斉藤孝に限らず、親向けの教育関係の本のほとんどは疑似科学と同類といえるのかもしれません。

ひとつ付けくわえると、「教育現場で○○という問題があって、それには××が有効だ」という議論は意味がありますが(ほとんどの教師にとって、日々の教育の努力とはそういうことを考えることです)、よくある「学力低下には○○が有効だ」という議論はそれが科学的主張をよそおっているかいないかに関らず、擬似科学と同類です。(あ、これも疑似科学批判しろっていう意味ではありません。)

最後に、斉藤孝のファンの皆様、とりわけ、斉藤氏の呼吸法の本なんか読んでる皆様、あなたがたはテレビで斉藤孝を見たことがあるでしょうか。私は一度だけですが、頭のテッペンから、「ハラで呼吸しましょー」とかいっている斉藤孝のイメージが強烈に残っています。とてもハラで呼吸しているようには見えませんでした。私は遠投が5メートルの人間がキャッチボール教えているようにしか見えませんでしたが、皆さんはどうお思いでしょうか。

追記

投稿してすぐに、もっとあぶないのは石原東京都知事と安倍首相ではないかと気がついた。