ありがちな社会主義批判、市場経済擁護をありがちに批判する(その1)

えー、これから伊藤元重さんにはむかうわけですが、別に伊藤さんが特別酷いというわけではありません。このネタに関連して、1ヶ月ばかり前、同僚と議論して、もやもやっとしていたところに、ゼミ生が伊藤さんの『入門経済学』の報告をしたので、おーこれネタにしようやというわけなのです。伊藤さんの本をゼミ生に読むように勧めたのは、私で、伊藤さんの「ミクロ経済学」は長いこと、自分の講義のテキストに使っていた本で、御世辞とか社交辞令でなく、伊藤先生には経済学の教師をはじめるにあたって大変恩をうけたと思っているのです。伊藤さんのテキストの今回問題にする箇所と同様の議論は一般的で、伊藤さんの本を選ぶのはそれが典型的かつ、わかりやすく書いてあるからにすぎません。*1

入門 経済学

入門 経済学

日本やアメリカのような市場経済の国には備わり、旧ソ連・東欧、中国などの社会主義の国に欠けていたもの、それは市場メカニズムあるいは価格メカニズムと呼ばれるものです。

伊藤元重『入門経済学』12章

これにつづいて、伊藤さんは、市場メカニズムの基本的特徴として、(1)「企業間のきびしい競争」、(2)「消費者の自由な選択」、(3)「価格を通じた需要と供給の調整」をあげています。この部分だけよめば、この表現はなんのあやまりもありません。問題はこの文章が「社会主義に欠けているもの」という節の冒頭にあることです。可能性としては、上記の特徴を一定程度そなえつつ社会主義といえる体制があるかもしれません。しかし、上のような社会主義の一形態にすぎない過去に実在した社会主義について客観的事実を述べた文章も、「社会主義に欠けていたもの」という節の中にあれば、私が問題とした現実にあった社会主義より随分ましな社会主義の可能性に、少なくともほとんどの学生は考えなくなってしまいます。

外野からの「馬鹿左翼が!」という罵声が聞こえる気がしますが、現実の社会主義は実現可能であったもののうち、最悪に近いプランを採用した可能性があります。このことを確認のため、二つのことを指摘したいと思います。第一は、ロシア革命の最中に社会主義計算論争という社会主義者市場経済を支持する人々の論争があり、その社会主義側の代表者であるオスカー・ランゲは伊藤さんが指摘したような市場経済の利点をそなえたものとして、社会主義を構想していたことです。第二に現実の社会主義において、そのような論争は実際の経済体制の設計においてほとんど無視されたということです。とえらそうに書きましたが、私のタネ本は盛田常夫の『体制転換の経済学』(絶版のようです。アマゾンで古本が買えます。)です。実際にランゲの論文とか読んだわけではありません。その辺をちゃんと勉強している人がコメントなりトラックバックなりで補足してもらうととってもうれしいです。

体制転換の経済学 (新経済学ライブラリ (20))

体制転換の経済学 (新経済学ライブラリ (20))

まず、社会主義計算論争についてです。通常の社会主義経済観では、生産手段は国有化されると想定されていました。その結果、消費財のほうは私的に所有されるとすれば、生産手段は市場化されず、消費財は市場で交換されるような経済を考えるのがある意味素直です。そして、当時の社会主義者もそのように考えたようです。市場経済側のミーゼスは生産手段が市場化されなくなると、生産手段の価格が形成されなくなり、合理的な生産計画がたてられなくなると主張しました。

これに対して、ランゲは政府が市場で形成される価格のかわりに擬似価格というか、隠れた価格を計算し、それにもとづいて、企業をコントロールすればいいと考えました。その具体的方法には、(1)消費者は選択の自由は行使できるようにする。これによって、消費者は効用最大化を行いうると考えました。(2)企業は消費財価格と生産手段についての政府の計算した価格もとづいて、平均費用の最小化と価格=限界費用が成立するように企業行動を政府が誘導する。これは伊藤さんのいう「企業間のきびしい競争」を政府の企業行動のコントロールで代替することを意味します。(3)職業選択の自由を保証する。これによって、労働者は賃金と仕事の不効用を比較して、効用が最大になるような合理的な職業、労働の選択がおこなえるようになると考えられます。そして、詳しくは書きませんが、ワルラスの模索過程に似た方法によって、政府の生産財価格が改訂され、市場経済の理論における競争均衡に類似の状況が得られると考えました。

もし、実現したならば、ランゲ流の社会主義は伊藤さんのいう市場経済の三つの特質がもたらすものを同様に実現していたはずです。(1)の競争は政府のコントロールによって代替され、(2)の消費者の自由な選択は保証され、(3)の価格メカニズムは同じ機能をもつものが、消費財市場と政府の経済計算によって達成されます。

しかしながら、現実の社会主義は価格メカニズムあるいは貨幣的尺度への軽蔑を背景として、そのスタートを切ります。http://www.ihope.jp/socialism.htmlによると、ミーゼスの社会主義批判はドイツのバイエルン・レーテ共和国の中央計画局の長官をしたオットー・ノイラートを念頭に置いたものだったようです。ノイラートによれば、第一次世界大戦中の戦時経済は経済の「社会化」への重要なステップとしてみなされました。

ノイラートによれば、経済を社会化するとは、社会のために、社会による経済の計画的な管理を意味する。そして、このような計画的な管理のもとでは、貨幣的な評価法をやめ、現物での評価法を採用することになろう。結果、生産と消費はより直接的に結び付けられるようになり、通貨、為替、好況、不況によって覆い隠されていたものが、除去されることになり、すべてのものがより透明に、そして管理し易くなる。

盛田前掲(p.47)

おそらく、ノイラートに明確な貨幣的尺度、ひいては価格への蔑視を背景に、旧ソ連は物財バランス法という計画手法をつくりあげます。それはつぎのようなステップで計画が策定されます。

第一に、共産党内部で主要物財についての年次目標が立てられる。…

第二に、…その統制数字の適合性を検討する。…そして、第一次計画を党と産業省に提示する。

第三に、産業省は第一次計画案を企業に提示し、企業からの資材需給の情報を得る。

第四に、各産業省はこうして収集された情報をもとに、再度、ゴスプラン(計画当局:引用者注)とのあいだで情報交換を行ない、最終的な資材の配分の詰めをおこなう。

第五に、こうした情報収集のプロセスを経て、ゴスプランは最終計画を策定し、党の了解を得る。

第六に、最終計画が産業省を経由して、企業に伝達される。

あきらかなのは、ここにはランゲが考えた計算価格の発想も、価格を計画にやくだてる発想もないことです。この体制は1928年からゴルバチョフペレストロイカを初める1985年ぐらいまで続きます。

当座の結論です。少なくとも社会主義陣営にいる人の中には、経済が効率性を満す条件として、現在の主流派とほぼ同じこと考えていました。しかし、彼らの知恵は現実の社会主義の運営には生かされませんでした。

ここまで読んで、「ランゲは競争を政府のコントロールに変えたからダメだ」とか、「価格を政府が計算するなんて無理」とか思っている人がいるかもしれません。私も結論としては、それを支持します。しかし、早急に結論を出す前に、きちんとランゲの提案した計画経済のパフォーマンスをきちんと議論しなければなりません。(続く)

*1:面識ないのに、随分腰ひけてんな。