「沖縄ノート」読んでませんが

ゼミの4年生が卒論で竹島問題やってるので、ナショナリズムとか、ウヨとかサヨとかのことをぼーっと考えてしまう今日このごろです。

巨魁とか巨魂だかはしかるべき方々がしかるべき場所で議論しているので、そっちにまかせますが、集団自決をめぐっての議論で疑問に思うのは戦前と戦中の沖縄を「本土」と同等であるかのような議論をよく見ることです。沖縄ノート曾野綾子も読んでないので、推測にすぎないのですが、集団自決の背景には軍の沖縄のひとびとへの不信感や沖縄の人々への蔑視が確実にあったように思います。集団自決に軍の命令があったかどうか以前に、植民地なみのあつかいをうけたすえに死なざるをえなかったのが、沖縄の人々の怒りの背景にあると思います。

沖縄の人々は現在、本土の日本人とおなじ日本人とみなされていますが、戦争中からそうであったわけではありません。ある意味では沖縄の問題は、本土の日本人の戦争被害の問題よりも、韓国人の戦争被害の問題に近い側面があるように思います。ところが、今現在の沖縄の状況から、戦中も沖縄が本土なみであったかのような錯覚があるように感じます。

えーと、それとゼミ生がやっている竹島の問題ですけど、あれも、明治以前の竹島の実効支配が問題になってますが、韓国側にしても、日本側にしても、明治以前に実効支配なんて観念はなかったにちがいありません。あの当時のひとびとが近代的な国家観念をもっていたとすれば、それこそ不思議です。竹島についての外務省の見解は、ああ日本国の役人ならこういうのがまっとうだなという気がします。が、近代的な国境の観念が未成立な時代の実効支配をうんぬんするのは、決着がつかんのがあたりまえではないかいう気がします。このへん、国際法の専門家はどうお考えなんでしょうか。

どっちの問題にせよ、どうも現在の日本の枠組みを前提にして、過去のことを議論してしまう傾向がつよいように感じるんですが。

あー、あと、竹島問題がもめるのの一因は幸か不幸か、他国の国境問題とちがって、深刻でないので当事者以外の関心をひかないからではないでしょうか。中立的な立場からの議論があまりに少なすぎるように感じます。この本は韓国側、この本は日本側と区別しながら文献をあさらざるをえない学生が可哀そうです。その意味で(どういう意味だろう)さまざまな見解のなかで唯一わたしが共感するのは赤尾敏の「竹島などダイナマイトでふっとばしてしまえ」です。