科学は疑似科学より平等である

ある種の宗教は、というより、伝統的なほとんどの宗教は個人の主体性をないがしろにし、人間の中に階層をつくりだしているかのように見える。だけども、ほとんどの(まっとうな)宗教の目的は平等であると思う。キリスト教にしても、神のもとでの平等を解くし、仏教でも煩悩なり、苦悩なりというのは、架空の不平等の世界にいることによる苦しみのことをいうのだろうと思う。

しかし、多くの宗教の場合、いきなり、その平等な世界に人々が行けるとは想定していない*1。ほどんどの宗教はいったん宗教組織という不平等きわまりない世界に入り、そこで、現世的な「主体性」を落していって、その階層をのぼりつめていって、平等な世界にたどりつくのがほとんどのように思う。

だが、多くの宗教、あるいは、カルト宗教はその階層の部分が自己目的化し、そもそもの平等な世界という目的を忘れることによって、単なる抑圧組織になるのではないだろうか。

このことは宗教組織だとよくわかるのであるが、学校あるいは制度化された科学も同じ側面を持っているように思う。科学的言説は本来、身分制度にとっては制度破壊的なものだが、個人がそれを習得する時は、少なくとも現在の社会では、学校という階層的な社会の中で、個々人の到達度がはかられるような、一見して不平等さの色濃い組織の中で行なわれる。そこでの階層が高いものは、それによる既得権益もえられるし、その階層の中で高い地位を得たものは、学校の外でも、類似の既得権益を得られる。学歴差別もその一つである。

私が、疑似科学疑似科学批判批判に感じるのは、この制度としての科学のカルト的側面がもたらす傷の深さである。これは他人ごとではなく、私自身にも確かに感じられる傷であり、また、大学の教員として、その傷をつくりだすことに手を染めているやましさもある。

私は科学的言説を疑似科学を信じる人にぶつけようとするとき、その傷を感じてしばしば躊躇する。しかし、この躊躇はあまりいいものとは感じない。それは私自身も属している科学カルトの中での階層の上下に対話する双方がしばられていることからくる傷であって、そもそも感じることがおかしいものだからである。

疑似科学批判に怒る人々に伝えたいことの一つは、すくなくとも本来の科学はほとんどの疑似科学より平等であるということである。科学的言説は「科学である」という権威によってその正しさが保証されるのではなく、あなたも、私も持っている常識によって認識可能な経験によってのみその正しさが保証される。まっとうな疑似科学批判は、疑似科学が制度的な権威から認められないことで疑似科学を批判するのではなく、私にも、あなたにも平等に理解可能な経験にそぐわないから、疑似科学を批判しているのである。そして、疑似科学を信じる人を下に置こうとしているのではなく、疑似科学を信じる人と共に認識できる世界を共有しようとしているのだ。

そして、疑似科学は科学のカルト化した側面の劣化コピーにすぎない。疑似科学は、それが制度化された「科学」のより高い階層にあることを自覚的にしろ、無自覚にしろ偽って主張することによって、その信者の権力願望を刺激する。それが大衆的に見えるとしても、信者を他の大衆より上位に置くことを目的にしている意味で大衆蔑視的であり、科学より平等に見えるとしても、信者以外の人々を下にひきづりおろすことのうらはらでしかないのである。

*1:禅などはそれをいう場合もあるが