三日坊主を何回でもすること

ブログを長期間放置していたのだが、昨日、記事を書いて、poohさんと松尾さんからコメントが来て、なんか、ブログを書くことにスイッチが入った気がする。(あいからわらず、注目欲しい君なのですね、私は。)数日は気がむいたときに何か書くように思う。

このブログについてもなんだが、私の行動パターンは三日坊主である。なんかはじめて三日くらいでやめる。ほとんどすべてにおいてそうで、こう書くと非常識だと思われるが、ほとんどの人がやっているような新聞を読むとか、メールチェックをするとかまで、三日坊主だったりする。もちろん、授業なんかは休むわけにいかないが、それについては、毎年授業のやりかたなり、準備の仕方が変っている。ようするに同じことをずっとすることができない。

これは、とても自分が学校に通っていたときは、教師には歓迎されない性質で、つい最近まで、自分でも欠点と思っていた。もちろん、自分で意識的に三日坊主をしているわけではないので、自分でコントロールできない性質をもってしまっているという点では欠点なのだが、それを前提にしていろんなことを考えないと仕方ねーなを思いはじめている。

その点で参考というより、ショックをうけたのが、NHKクローズアップ現代で、コンピュータ企業につとめる高機能障害の方の仕事ぶりを見たときだ。彼は数時間、猛烈に仕事をしたあと、机のうえで眠りこけてしまう。彼は優秀なのだが、そのような仕事ぶりのせいで、その企業につとめるまで、仕事を転々とする状況においこまれる。

その仕事ぶりをみて、直感的に「これは私と同じだ」と感じた。私が本を読んでいる時を見た妻とか、私と一緒に作業した同僚に、「すごく、猛烈にやる」とか「全然、周りから浮いている」とかいわれることが多かった。ねむりこけることはないが、仕事をある程度すると、もう、何にもするきになれなくて、「やんなくちゃ」と思うことができずに一日終ってしまうのをずっと気にやんできた。

気にやんできたのは、周囲のほとんどの人間ができること、つまり、平均的な勤務時間で、日常的な仕事をおえるというのが出来ないからだ。今、反省してみると、ガーっと仕事をしたあとは、もう、能力が常人の三分の一くらいになっている。そのような疲れはてた自分と周囲を比較して、もんもんとしていたように思う。そして、毎日、新聞を読み、メールチェックをする世の中のほとんどの人を見て、あーよくするなー、自分はだめだなーと思ってきた。

その反面、しなくてはいけないわけでないことに徹夜ではまってしまうことがしょっちゅうある。もちろん、その後はぐったりしてしまう。

それでもNHKで高機能障害の方を見て、なっとくがいった。自分はガーとやったあとは休まなければならない。そういう仕事の仕方しかできない。おそらく長期的にもそうで、何かを勢いよくやれた時期のあとは、かならず、短かくない停滞の時期がやっていく。その時期を深刻にならずに、ゆっくりやすめばよい。

もし、この文章を読んでいて、自分の仕事の能力とか、やりかたに悩んでいる人がいたら、私がいいたいのは、こういうことだ。世の中の人があたり前のことがあなたにできないとしても、それは仕方がないことである。ほうれんそうとちゃんとしろとか、毎日規則ただしく○○しろとか、だれでもできることをあなたは要求されるけど、それをあなたは永遠にできないかもしれない。(40過ぎまでがんばってできなければ、それは身につかないだろう。)でも、それをがんばってしようとするより、できないことを前提に何ができるか考えたほうが、できること何ができるか考えるほうが、生産的ではないだろうか?

ここ数年、私は、自分が多く人ができない何かをする能力をもっていることには、むしろ自信をもつようになった。これは自分が優秀と思っているわけではなく、そういう自分の長所というのは、誰でももっているものだ。そのような自分の長所と思える部分のうち、生れもったものでなく、一種の訓練で身についたものもあるが、それらは意識的な訓練の結果というより、訓練ともおもわず、とりくんできたことの結果である。いいかえれば、他人のできることをできるようになろうとするような努力は自分の人生の中では、それができないということの理解(これはとても価値があるものだが)以外は、ほとんど意味をもたなかった。今、その長所をつかって何ができるのか、自分でもよくわからない。そのことが悩みである。