選別の手段としての学問と科学

学校の教師だから思うのかもしれないが、日本の教育制度がそのままのうちは、疑似科学問題は起りつづけるように感じる。教育、学問、科学といったものは、日本人の大半にとって、その内容以前に選別される経験である。私や私の同僚の大学の教師もふくめて、日本人のほとんどは自分の学歴になんらかのコンプレックスを抱いている。たとえ、東大卒であっても、自分にとっての値打なりアイデンティティが東大卒であることだけによっているなら、それもある意味で学歴コンプレックスである。そうしたコンプレックスとまるで無関係に科学や学問とつきあうことは、とてもむずかしいはずだ。

私は海外の事情にうといが、すくなくとも、(1)日本の中学以降の教育が事実上、一部の平均以上の学力もつ人間をのぞけば、選別の手段でしかないことと、(2)一発の入学試験という学力の測定手段としては、きわめていいかげんな手段によって、選別が実行されていることは日本に特異な事情と考えてよいのではないだろうか?

(1)の事情は二つの要因がかさなったものと思われる。第一に高校進学率はほぼ100パーセントに近く、大学進学率も50パーセントをこえていて、高校や大学の社会においての役割が変っているにもかかわらず、カリキュラムが基本的に明治・大正時代のエリートを養成する学校とあまり変らないことだ。大学を受験する平均的な学力、つまり、大学入試の模擬試験の偏差値で50程度の人は、学校でならっていることを普通に理解してるかという意味では、おちこぼれである。そもそも、社会の中で比較的少数に人間にしか必要でなかったものを、社会の大半の人のための学校でそのまま教えれば、落ちこぼれがほとんどになるほうがむしろ自然である。実際、受験英語で偏差値50というのは、大学受験をしようとする集団のなかで、平均的な学力(あくまで、受験に関してではあるが)を意味するが、多少なりとも大学生の学力の実態を知っていれば、それは中学生程度の英語も不十分であることを意味することはわかると思う。(とくに大学受験を経験した人は、偏差値50をとてつもなく、恥しい点数と思いがちだが、世の中で半分程度の大学を受験する層の平均点なのだから、おそらく、すべての高校生の集団の中では平均を越えている可能性が高い。世間の平均以上の学力をもった人がDQNとかいわれるのは不合理である。)おそらく、中学、高校以上の授業は生徒の半数以上にとっては、すでに落ちこぼれてしまった分野の授業に、それについていく機会もつくってもらえずに、強制的につきあわされる時間でしかない。

もし、これで落ちこぼれても何の問題もないならいいのだが、第二の要因として、日本の社会ではもっとも強力な人間を選別する手段のひとつが学歴になっている。中学生は中学校の勉強がわからなくとも、高校受験のために、高校生は高校の勉強がわからなくとも、大学受験のために、生き残りのためにとりくまされることになる。すでに落ちこぼれて理解できない分野で、理解する機会をうしなわれたまま、試験で点数を稼ぎたければ、とりうる方法は丸暗記だけである。このようなことから、逃げ出すことは可能である。つまり、大学受験や高校受験にとりくむことをやめればよい。しかし、それは本人にも、周囲にも、たいていの場合、生存競争における敗北と受けとられる。

(2)の事情は単に大学や高校が選別の手段になっていることだけを意味しない。一発の入試で多数の学生を選別するには、点差がつかなくてはならない。もし、ある程度偏差値の高い大学で、基本的な事項がわかっていれば、平均的な学力の学生が得点可能な問題を入試で出題したとしよう。おそらくその入試の得点の分散はとても小さなものとなり、場合によってはボーダーの点数2、3点のあいだに、定員をこえる数の志望者が分布することになるだろう。そのようなことになれば、入学試験は志望者の選抜手段として役にたたなくなる。ほとんどの大学をそれをさけるために、志望者の平均的な学力の学生でも半分程度ミスするような問題をまぜるだろう。

大学入試問題のおかしさは、通常の各種資格試験の問題と比較すればよくわかる。たとえば、ITパスポートなり、基本情報処理なりといったコンピュータ向けの試験問題はその分野のことを多少しっていれば、解けないのがはずかしいような問題がほとんどである。おそらく、ペーパーテストが学力の指標として、高い精度をもちうるのは、知ってていればほとんど解けるはずの単純な知識や技能に関してである*1。実際、大学や大学院で学士の要件に論文が課されるのは、ペーパーテストで応用力を判定するのが、難しいことが経験的にわかっているからだろう。しかし、入試の場合、多くの大学では基礎的な知識・技能を問う問題を出題すると選抜手段として機能しなくなる。入試問題は学力の検査というより、トンチのようなものになる。

結果として、日本の学校で受験を経験したものにとって、また、そこから”ドロップアウト”したのものの多くにとって、学校の勉強とは、まる暗記したトンチをいくつこたえるかによって、他人に選別される機会として経験される。

さて、このような経験をしたひとにとって、学問なり科学とはどういうものに感じられるだろう。それは、なにより、人々を選別する手段とうけとられるのが自然である。学問なり、科学の本質でどうであっても、その社会においての機能はそうであるからである。したがって、疑似科学批判においても、論争の当事者だけでなく、観客においても、無意識にしろ、選別に負けた疑似科学支持者と選別に勝った疑似科学批判者の言い争い(あるいは勝者による弱者にいじめ)という色合いを感じるのが自然であると思う。それが一見不合理な疑似科学批判批判の背景だと感じる。

たまたま、ホメオパシーに関連した記事を数日中書いていたので、疑似科学に関連づけたが、正直、ここで書いたことは、大学の教室で授業のたびに感じざるをえない空気に触発されて書いた。私は自分が大学での授業で、おそらく、客観的に果しているであろう役割を麻薬商人のように感じている。受講者の多くは勉強したいためでなく、試験にパスすることがそれまでの経験で生存のための戦術だったから、授業に出席している(ように私は感じる)。大学の成績など、きりきりでパスすれば、生存競争のうえで問題になることは少ないし、授業にでなくても、少しの努力で試験きりきり可でパスすることが可能な試験の形式にして、それを授業にでないでパスする手解きまでするのに、安心のためだけに授業に出てくる(ようにしかみえない)学生が絶えない。彼らはそうすることでなんらかの安心をえようとしているように見えるが、そんなことのために授業をするのはもうまっぴらだというのが私の本音である。若いときの貴重な時間をそんなことについやすのは、麻薬中毒にかかっているのとあんまり変らないように感じる。

ついでに、前の記事で近代主義を絶賛するような青くさいことを書いたが、科学や学問が現在社会の中ではたしている役割はどうであれ、その発端においては、反階級的であり、差別的な社会に対しては、毒をもった反社会的なものであったことは、確信している。(だから、デカルトはガイレオの裁判におそれおののいたのだ。)おそらく、疑似科学への指向のある部分も、制度化した、階級的な科学、差別的な社会のありかたへの批判をもっているのだろうと思う。しかし、それが果している実際の役割は情報弱者の搾取であり、社会のゆがみを、ますます強めるものになっているように思う。

*1:TOEIC もそうである。英検一級なりTOEICなりは正解率が低いのは、それが受験者の平均的な知識量からかけはなれているからであって、英語の学力がある人間にはほぼ満点とれる種類の問題である。