野田政権の現状の金融政策のスタンスが適切であることについて

経済学では、市場への介入が不要なのに政府が市場に介入してしまったことによる不都合を「政府の失敗」、政府が市場に介入すべきなのに介入しないことによる不都合を「市場の失敗」といいます。ほとんどの教科書の政策についての議論は、市場の失敗と政府の失敗をさけるための、市場と政府が適切な役割分担につきるでしょう。

ところが、昨日、授業中に気がついたのですが、現実の経済問題のいくつかは政府の失敗にも市場の失敗にもあてはまらないように思います。

ほとんどの経済学ではアメリカの市場は賢いが、日本の市場はバカだとか、80年代の日本市場はかしこかったが、90年代の市場はバカだったなどという議論はでてきません。もしかしたら、ある程度そういうことはあるのかもしれませんが、明白に観察されるほど、市場の賢さというのは差がないように思われます。

ところが、ほとんどの人が実感していると思いますが、政府の担当者というのは明白に能力差があるように思います。阿呆な大臣もいれば、賢い大臣もいます。たとえ賢くても、国民にとって適切な政策を行なわない可能性もあります。

したがって、市場の失敗に分類されるケースであっても、あまりに政府がアホすぎて、適切な介入を行えないケースはおうおうにしてあると思います。

ところが、通常の経済学のテキストに書いてある記述は、完全な政府あるいは十分に賢い政府を想定しています。だけども、介入が必要だが、現実の政府のすることはしないよりもマシなケースがありえます。これを考慮すれば、現実の経済状況の優劣は以下のように分類できるでしょう。
(a)市場への介入なし>賢い政府の介入≧現実の政府の介入
(b)賢い政府の介入>市場への介入なし>現実の政府の介入
(c)賢い政府の介入≧現実の政府の介入>市場への介入なし
通常のテキストでは(a)は政府が経済や市場に介入すべきでないケース、(b), (c)は政府が経済や市場に介入すべきケースと考えられています。しかし、(b)において政府が経済や市場に介入すれば、市場に介入しない場合より、経済状況は悪くなります。このようなケースを「政府が失敗」と呼びましょう。

経済政策についての論争の多くは政府が政策を行うべきかどうかではなく、政府の行う政策の適切さに関っています。したがって、そのような場合に議論されている問題は「政府の失敗」や「市場の失敗」ではなく「政府が失敗」なのです。

このこととN首相が経済学のド素人であり、某省庁と某国立金融機関のいうがままであることを考慮すれば、現政権が一部の人々が適切だと主張している金融政策をとらないためには、経済政策についての議論をするより、自分達のようなド素人がまじめに金融政策などしようものなら、金融政策などしないほうがましであるを主張するほうが説得的なように思います。ただし、その場合、課税政策についても、同様のことがいえることはいうまでもありませんが。

ちなみに、以上のことがらが多くの教科書に載っていないのは、経済学者の多くが私のように気がついていなかったからではなく、政府がアホかどうかは、経済学の範囲をはずれているからだと思います。実際、我が国に代表的なケインジアンというべき尊敬している二人の方の主張を理解できない私は、政策に影響をあたえうる立場で正しいことをいうことが、政治学的事情でとても困難なことなのかと想像しています。