『経済学と経済教育の未来』

濱口さんのブログよりもずっと遅い告知なってしまいました.
とりあえず,アマゾンへのリンクします.

経済学と経済教育の未来―日本学術会議“参照基準”を超えて

経済学と経済教育の未来―日本学術会議“参照基準”を超えて

本書を推す
生物も社会も多様性を失うと滅びていく。
経済学も例外ではない。
金子勝(慶応大学教授)


経済学教育の画一化に抗して
本書の企画は,日本学術会議の経済学分野の「参照基準」の策定作業に対して多くの学会および研究者・大学教員が憂慮を表明した署名運動の中から生まれました。

多様性と創造性の促進こそが民主的な社会の基礎
ー経済学の社会性・創造性をとりもどすー
経済学教育の画一化とそれによる学生・生徒たちの視野の狭隘化は,経済学自体が社会科学としてもつべき多様性と創造的な発展の可能性を失わせかねません。

現在の大学での経済学教育の画一化への動きは,各大学,各学部レベルでの人事やカリキュラムをめぐる議論においても強い影響力を持っています。それは大学のみならず,中学,高校での社会科教育,ひいては市民の全般的な社会科学的リテラシーに波及しつつあります。経済学教育が一面的なものになることは,多様性と創造性を保証しながら協働していく民主主義的な社会の構築にとって誠に憂うべきことです。

学派・学会を超えた真摯な討論
本書は所属学会・学派を超えた執筆陣により,多様な側面から参照基準を検討してゆきます。『参照基準』問題の背景にある大学教育の「国際的質保証」の課題を批判的に考察し,標準的とされている経済学を中心とするカリキュラムを超える多様性を経済学が持っていることを伝えるとともに,経済学の教育の創造的可能性を探求してゆきます。

目次
まえがき 八木紀一郎
序論 経済学の「参照基準」はなぜ争点になったのか(八木紀一郎)
第1章 教育に多様な経済学のあり方が寄与できること――教育の意義を再構築する――(大坂 洋)
第2章 経済学はどのような「科学」なのか(吉田雅明)
第3章 マルクス経済学の主流派経済学批判(大西 広)
第4章 競合するパラダイムという視点(塩沢由典)
第5章 純粋経済学の起源と新スコラ学の発展――今世紀の社会経済システムと経済システムの再定義――(有賀裕二)
第6章 「経済学の多様性」をめぐる覚書――デフレと金融政策に関する特殊日本的な論争に関連させて――(浅田統一郎)
第7章 経済学に「女性」の居場所はあるのか――フェミニスト経済学の成立と課題――(足立眞理子
第8章 経済学の多様な考え方の効用――パート労働者の労働供給についての研究例から――(遠藤公嗣)
第9章 地域の現実から出発する経済学と経済教育――地域経済学の視座――(岩佐和幸)
第10章 主流派経済学(ニュークラシカル学派)への警鐘――経済理論の多様性の必然――(岩田年浩)
第11章 大学教育の質的転換と主体的な経済の学び(橋本 勝)
第12章 働くために必要な経済知識と労働知識(森岡孝二)
付録
大学教育の分野別質保証のための 教育課程編成上の参照基準:経済学分野(日本学術会議
「経済学分野の教育課程編成上の参照基準」の審議について(岩本 康志)


卒直にいって,編者兼,執筆者の1名をのぞいて,豪華メンバーです.わざわざいわなくとも,なんですけど.

編者の一人として,内容に満足していることは,多くの論考が参照基準への異論をとなえながら,「主流派」の経済学へのスタンスとしては,かなりの幅広い立場をフォローするものになっていることです.この本全体のキーワードは多様性ですが,経済教育における多様性の必要性自体,多様であることが読んでいただければみてとれると思います.

私の文章についての執筆者個人としての補足ですが,草稿段階では,かなり岩本委員長ほか検討分科会各位への感謝の念を強調したものでした.その部分が圧縮されたのは紙幅の問題です.検討分科会が,少なくとも真摯に異論に向き合おうとされた誠意は疑いようがありません.このことは,橋本勝氏の論考でもふれられています.

ただ,その一方で,経済学的認識は相対化されうるものであるという根本的な学問観については,理解していただけなかったとも感じています.卒直に真摯に対応していただいても,こんな基本的な,あたりまえのことの部分が理解していただけないのかという失望感もあります.だけども,将来の見直しの機会にも,今回の真摯な態度を将来の検討分科会には継続していただきたいと思っております.

財務省各位への誤解について

濱口さんの記事を読んで、いままで財務省の皆さんに、大変な誤解をしていたことに気がつきました。ただ、これは多分、私だけの誤解ではなく、経済に関心があるかなり多くの人達と財務省の皆さんとの間の誤解のように思います。

やっぱりこいつらは「りふれは」

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-9c68.html

一言でいえば、財務省のみなさんは高齢化対策などの福祉予算のために増税が必要と主張しておられました。私を含めて多くの人々は全然、それを本気にうけとっていませんでした。皆さんが増税による省庁にからんだレントシーキングを目指していると感じておりました。大変もうしわけありません。もちろん、卒直にいって、財務省には多くの人々がいますから、一部にはそのような人もいるかもしれませんが、問い質すこともなく、財務省の全体がそのような動機で動いているような妄想にとりつかれていたのが、いままでであったと思います。

私は今回の「アベノミクスの失敗」(あるいは後退)において消費税増税が大きな要因であり、間近の消費税アップも景気をますます悪化させることを確信しています。消費税増税は税収の減少によって、ますますの財政の悪化を引き起こし、格差拡大とともに、諸々の福祉政策の足枷になると考えています。

また、アベノミクスの理論的基礎となるインフレターゲット政策の本来の期待される効果は(現在、あまり十分に発揮できているとはいえませんが)実質利子率の低下によって、富裕層や内部留保を溜め込んでいる企業の貯蓄を不利にすることを通じて、失業者の雇用を改善する所得再分配効果をもたらす、失業給付や福祉政策を補完するものと考えております。それが多くの人達の啓蒙の努力にもかかわらず、株式をもった富裕層の利益を重要視した政策と誤解されつづけていることもディスコミュニケーションの原因の一つと考えています。(昨年の株価の上昇が消費の期待されるほどの上昇に結びつかなかったことが、そのような誤解を強めました。)

このように私たちの経済政策の認識はほとんど180度、財務省の方々とは違うものですが、基本的にはバブル崩壊以降ひろがった経済格差し、財政危機による福祉の足枷を解消することを目的としており、これ以上の福祉のきりつめを避けようとする良心的な財務省各位とは同じ目的をもっていると思います。

皆さんの真の目的を誤解し、これまですでに述べたようなあやまった認識をもっていたことをお詫びします。リフレ派の代表でもなく、まったく無名な私がわざわざ謝罪を表明するのは、申し分けない気持があるのと同時に、私と同じ種類の誤解を多くのリフレ派と呼ばれる経済学者を中心とする人々がもっていると思うからです。皆さんに謝罪すると同時に、私が敬意を払う経済学者達にも誤解をとくべきと考えております。

私は今、同じ県に住む公務員である知人とした議論を思い出します。彼女は現在の財政状況で財政支出が増えると福祉や教育への支出が削減することを心底心配しておりました。私はそうではなく、不景気での支出の削減は、有効需要の減少を通じて、財政を悪化させると考えています。むしろ、支出の増大が景気対策となる現時点で、財政危機の不安から歳出削減の圧力が高まっていることが、ますます財政危機を悪化させる悪循環におちいっていると感じます。(浅田統一郎氏がこの点について明解な議論をしています)この議論はすべての経済学者に支持されているとはいえませんが、古典的なケインズ理論からほぼストレートに導かれるし、ニューケインジアンも支持しうる論点です。

経済学を学んでない私の知人がそのような論点に考えがおよばないのは、むしろ自然です。しかし、財務省のみなさんが卒直にこのような経済学的には常識的な観点をまったくスルーしているのは、皆さんが日本のエリート中のエリートであるというイメージと認知的に著しい不調和を私の中に引き起こしました。私は単純にそのような初歩的な経済理論にみなさんが無知である(失礼ですが、卒直にこういわざるをえません)という可能性を考えることはできず、皆さんが福祉や格差の問題を本音では省庁の利益よりも低く見ていると考えることで、なんとかイメージと現実のバランスをとっていました。おそらく、皆さんが属しているのが、日本で事実上、最も強大な権威をもっている省庁の一つであることも、私の中に反権力的な偏見を助長させた面もあったのではと感じております。

ただ一つ、いまでも認識がかわらないのは、皆さんがマスコミや政治家に対して、極めて強い影響力をもっていることです。私は今は、皆さんの多くが私の知人と同様の水準の認識で経済・財政や今後の福祉を考えており、皆さんの発言をそのままに本音としてうけとるのがよい、と考えるにいたりました。ただ、卒直に皆さんの経済認識は非常に偏っており、意図と反して、いっそう財政危機を深める結果をうみかねないものです。その点は、経済・景気と財政の関係を認識していただき、皆さんに信頼をよせているマスコミ、政治家、ひいては国民を正しい認識に導く責務があります。これは本来、私を含めた経済学者が引き受けるべき任務なので忸怩たるものですが、皆さんの発言が経済政策にあたえる影響は経済学会よりも強いのが現状といわざるをえません。

財政の専門家である皆さんにいうのは大変失礼なのですが、過去の消費税増税が日本の税収にプラスの影響があったかについて、再考をお願いしたいと思います。税率と税収の推移をプロットしたグラフを外国人にみせたとして、いつが消費税導入のタイミングなのか、日本経済を知らない外国人は、たとえ経済学の知識があってもわからないと思います。それは景気による税収の大きな変化が、税率アップの効果を上回っているからでしょう。今回の消費減退もふくめて、過去をかえりみれば、税収のアップは景気の回復後にするのが順当と考えます。それがひいては日本の財政再建につながり、財政危機が福祉の足枷になっている状況を脱却するきっかけをつくることになると考えています。

景気をどう回復するかについては、政策手段について議論の余地があります。私はアベノミクスの金融政策が今後、もりかえすことを願ってはいますが、在庫循環の動向などを見ると消費税アップ前より、成功する可能性はかなり小さくなったと考えています。増税どころか大幅な減税が必要とさえ考えます。また、安倍政権では実現可能性は小さいですが、共産党などは企業の内部留保を賃金にまわすことでの格差縮小を提案しています。現状の皆さんよりも経済への認識の違いが少ない論者の間でさえ、今実行すべき政策内容は合意ができていません。しかし、福祉の足枷となっている財政危機と格差の解消の最も強力な効果をもつのは、景気回復であることは私は否定しようがないと思いますし、ここの認識をまちがえると日本経済は若年層を中心とした低賃金と高齢化によって破綻せざるをえないと考えています。ここのところは大きな発言力をもつ省庁の一員として財務省の皆さんに認識いただきたく存じます。

濱口さんのブログのコメントにも書きましたが、いままで皆さんに対する誤解を知ってことは、コミュニケーションギャップの恐しさと同時に、皆さんと経済学者との間で建設的な対話の可能性を見いだせたことで、大きな希望もいだいています。また、濱口さんのような信頼できる方が私達の誤解に正当に怒りを表明していただいたことに感謝しております。

宮沢大臣SMバー問題について人力検索で質問しました。

http://q.hatena.ne.jp/1414579272

テレビのドラマに料亭で政治家が会合する場面がでてきます。東京の有名な料亭では一人2万円以上でしょう。一次会で薬研堀のスナックかキャバクラで意見交換、二次会で総額15,000円のSMバープランはテレビドラマ的自民党水準の意見交換水準より、政治資金の節約になっています。

それで、政治家の政治資金の状況に詳しい方に質問です。

1)テレビドラマのような料亭で会合はよくあるのか。
2)だとすれば、東京の政治家が使う料亭の平均的な価格水準はどれくらいか。
4)また、それは政治資金規制法の対象となる資金から出資されているのか。
4)一次会で意見交換をすませた二次会の予算も帳簿にのせるというのは政治資金規制法的には許されるのか。(法律の精神ではなく、標準的な運用のレベルで御回答いただければ幸いです。)

蛇足:私は自民党は大嫌いですが、宮沢大臣のケースは少くとも金額的には全然セーフと思います。また、SMバーの従業員、もしくは、SM嗜好の方々への根強い差別意識も感じます。(正規雇用のOLも、キャバクラ嬢も、SM嬢も同じ人間として尊重するのが日本国憲法の精神だと信じております。)

マジで知りたいので、よろしくお願いします。

L型教員を目指します。

とりあえず、

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/__icsFiles/afieldfile/2014/10/23/1352719_4.pdf

とか

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/l-9948.html

冨山氏の悪口いう人が多いが、大学の外や学生の平均的な認識はこんなもんなんじゃないだろうか。要するに人文・社会系の大学の職業的意義は自動車学校以下。

ちょっとだけ、冨山さんに注文。(多分、読まんだろうがこんなブログ)G型教員ダメならL型教員みたいなのあったけども、これは絶対に反対。かつて、教養部が学部の下みたいな意識が、変な教養部改革に結びついて、教養教育をダメにした。L型がG型の下という位置付けでやれば、絶対に多くの教員はついてこないことが予想される。むしろ、君、L型だめなの?仕方ないから役にたたないG型でもやっとけ、くらいの感じで文科省が始めないとダメでしょう。(L型への反発に一部には、かつての学部の下僕のような教養部への扱いを思いださせる部分があるかもしれない。)

それに関連してだけど、まっとうな職業的な意義のある教育にはちゃんとした学問的裏付けが必要となるし、ちゃんとした高度なL型教育ができる教員は研究者であるかどうかは別として、関係分野の学問的動向くらいわかってないといけない。この辺りは本田由紀さんの本を参照のこと。

あと、こっちのほうがより真剣な注文なんですが、大学の職業的な意義のある教育を企業が評価することなしに、L型大学は成功しない。せめて、経済学部で簿記3級とか、ITパスポートとっている学生をTOEIC650点(ささやかすぎますか?)くらいにはみなしてくれないと。さらにいえば、今の職業的意義のない大学の現状であっても3年後期の成績、できれば、4年前期や卒論の準備もしっかりやっていることをしっかり見て企業が内定を出してくれるような下地がないと、L型への移行も難しくなるんじゃなかろうか。運動部やっているほうが、勉強やっているより評価されるようじゃ学生のほうも安心して勉強できない。そのあたりは、冨山さんがぜひ経団連にはたらきかけてもらわなければならない。

いずれにしてもL型の教育実績や教育成果、L型学問をちゃんとやった学生が社会や企業にちゃんと評価されないとうまくいかない。冨山さんの議論には、このあたりの危惧を感じている。

冨山さんが出した例はたしかにちょっと変だけど、逆に文句いっている(特に大学の教員)は職業的素養がないまま、労働市場に放置されている若い人のために何ができるか考えてんだろうか。専門学校化とかいうけど、専門学校以上のことを今の大半の大学は学生に提供できていなんじゃなかろうか。

ただ、大学の教員がこの手の話に気軽に賛成できない理由はよくわかる。自分のことでもあるし。私だって職業的意義のある教育なんてやれていない。この手の話は人文・社会系の教員は自虐なしにはきちんとした議論ができないのだ。それでもその自虐にたえることなしに、大学の状況を放置していれば、ますます、職業的素養がないまま、キャリア形成ができないまま、労働市場に若者が放置される状況がつづくのだ。

新田滋さんの論文にプチはまり

進化経済学会のメーリングリストで、下記の二本の論文を知って、ちょっとはまってしまった。

「宇野理論と限界原理

http://www.unotheory.org/files/2-12-7.pdf

「「復元論」と「分化発生論」について―宇野弘蔵と山口重克の方法論をめぐって―」

http://www.senshu-u.ac.jp/~off1009/PDF/nenpo48-7.pdf

「宇野理論と限界原理」は、宇野形態論に限界原理をとりいれるこころみ。「「復元論」と「分化発生論」について」のほうは、資本論のとりわけ価値論があんなめんどい書き方(弁証法的な展開)しているのなんでというが、ずっと頭にあり、それについて無駄に哲学的なヘーゲルの云々みたいなのは除いて、廣松渉のような一部の例外(あとで触れます)をのぞいて、アホにもわかるように書いてる文章がなかったので、「こんなの読みたかった!!」という感じでとても感激した。

それで内容の紹介というより、自分勝手に関連論文をネット・サーフィンしながら考えたこと。最初の二つの節は、ふだん私がなんとなく考えてたこと(でも新田さんの論文を読むおかげでかなり明確になりました)で、新田さんとは直接関係ありません。

宇野派のひとが読むかもしれないので、注意書きですが、私の専門はマルクス経済学でありません。植村高久さんが私の最初の経済学の師匠でしたが、反抗して最初の師匠にそむいたので*1、宇野原論をきちんと読む機会をもっていません。

廣松の唯物的弁証法解釈(まえふり、その1)

このブログの読者にとっては、また廣松か、なのですが、なんで資本論弁証法的かについては、私にとっては廣松渉の話がわかりやすい。というより、合理的に弁証法が必要な説明は廣松のものしかしらない。それは価値の存在のありかたの特殊性からきていて、われわれは交換価値を考えるとき、交換される二つの財についてのなんらかの実体を想定してしまうが、そんなものは物理的には存在しない。実際の商品や労働はまったく個別な、ひとつに還元できるような実体をもたないにもかかわらず、家計簿、簿記、会計など、いろんなレベルで我々は、こうした実体が交換や生産をつうじて移転したり、帰属したりといったことを前提に計算している。そうした実体は商品や労働の属性ではありえないにもかかわらず、私たちは商品や労働の属性として、そういうものが存在しているかのように行動しているのである。これは経済的な諸計算の基礎であると同時に、経済システム全体によって、こうした実体視が生じている。適切な廣松の文献が手元にないので、すんごくいいかげんですんません。

これは塩沢さんなどがいうところのミクロ・マクロ・ループの形になっていて、新古典派的な、あるいは、マルクス以前の古典派的な(あくまで価値論について)ミクロからつみあげていく方法では、ちゃんと分析できない。問題は主体の認識のありかたにかかわっていて、主体の認識(しばしば、錯誤や思い込みをともなう)から出発して、その認識にともなって生みだされる行動が生成する社会をつくりだし、それがまた当初の認識を生み出すという構造を分析する必要がある。廣松の『弁証法の論理』とか、難しくてようわからんので、弁証法自体は理解していないのですが、価値の分析が方法論的個人主義では分析できない理由はだいたい、こんなところと理解してます。

「貨幣の必然性」は別に弁証法的に説明される必要がない(まえふり、その2)

(書いてるあいだに、文体がここからおかしくなってます。すんません)

廣松についていえば、『資本論の哲学』とか『資本論を物象化を視軸にして読む」とか読んでも、私の程度のあたまでは、以上のようなことは分りません。この二つは私にとっては、わけのわからん本です。前の節の内容は、『マルクス主義の地平』、『マルクス主義の理路』、『物象化論の構図』とかで理解したのです。

なんで、『資本論の哲学』や『資本論を物象化を視軸にして読む』がわかりずらいのかは、私の頭の問題を別とすれば、この二つが資本論にそって書かれているからだと思うのです。資本論にそって書かれると、資本論の重要な問題意識である、貨幣の生成を弁証法的に展開するという部分にふれざるをえません。はっきりいって、貨幣が市場において、どうして必要かというのは、弁証法的に説明する必要がまったくないと思うのです。

新古典派でいえば、清滝=ライトの議論がありますし、置塩信雄が『経済学はいま何を考えているか』でしている議論もありますし、市場において貨幣がないと困るという話は方法論的個人主義のレベルで十分にできますし、資本論の解釈史みたいな話は私は無知なのですが、資本論の貨幣の必然性の議論の流れは、実際上、「AでこまるからB、BでこまるからC、CでこまるからD、Dでもこまるから貨幣が必要」という形になっているじゃないでしょうか。それは論理的には、「Aでも、Bでも、Cでもだめだから、貨幣が必要」といっていることと同値で、別に弁証法的に考えなくてもいいんじゃないかと思います。(貨幣に関することがらで、弁証法的に考える必要があるテーマがありうることは否定しません。ここでは、議論を市場経済が貨幣を伴なわなければならないことに限定しています。)

廣松は、資本論弁証法的にいう必要がない議論もむりやり弁証法的に説明しようとする無理にひきづられているというのが、私が廣松の議論を十分に理解できないことのいいわけです。

それでいいたいことは、資本論全体は弁証法で説かれてますが、別に弁証法でいわなくてはなくてもいいことと、弁証法なり方法で、経済のミクロ・マクロ・ループを分析しなくてはならないことの両方があると思うのです。

(以上のまえふりは、主に「「「復元論」と「分化発生論」について―宇野弘蔵と山口重克の方法論をめぐって―」にかかわります。)

冒頭商品論はエッジワース・ボックスに載せられるか

ここから、新田さんの論文の中身にはいります。新田さんは別の論文ですが、「価値形態論と物神性論」のなかで、廣松および柄谷行人の価値形態論に以下のような批判をしています。

http://ir.lib.ibaraki.ac.jp/bitstream/10109/1570/1/20100198.pdf

むしろ、逆に、理想的平均、一般均衡を前提して、貨幣への「命がけの飛躍」を括弧に入れられると考えることこそが、古典派・新古典派理論の特徴なのである 。

しかしながら、資本主義的市場経済とは、そもそもが「命がけの飛躍」にみちたものなのであり、「不断の不均衡の不断の均衡化」としての価格変動が常態的な世界なのである。

とりわけ、廣松については、私自身が新田さんと同様の不満を感じていて、この批判にはとても共感しました。

他方で、私が問題にしたいのは、新田さんの価値形態論への提案では、このような市場の認識は、価値形態論から消滅してしまうのではということです。

新田さんの「宇野理論と限界原理」において価値論をエッジワース・ボックスにのせることが、重要な提案のひとつです。現実の市場がどうなっているかが、提案の妥当性の評価につながると思います。

はじめに同意できることをいうと、現実の市場での取引がエッジワース的なものであれば、価値の実体が限界効用あるいは「限界効用÷価格」とするのは、論理的にまったく正しいと思います。従来の労働価値説との整合性が問題になりえますが、少なくとも搾取に関しては、三土修平さんあたりが、限界原理が成り立つ場面における搾取論を議論していて、肯定的な結果がえられています。

問題は価値論の場面として、エッジワース的な交換を商品の売り手と買い手がしているという想定が適当かどうかです。これには私は否定的です。

宇野派の新田さんにいうのは釈迦に説法なのですが、価値形態論は売り手が自分の商品に値札をはって、買い手がその値札に同意するとき、交換が成立する状況を記述しています。商品の売り手と買い手には非対称性があります。

これはわれわれの日常的な市場で経験することですが、その非対称性の根拠には売り手と買い手が対照的でないことがあると思います。たとえば、スーパー・マーケットやコンビニエンス・ストアで私たちは売り手が値札をつける売買を経験します。この市場で売り手は同一の商品を多数の売り手に販売します。逆に山谷や釜ケ崎のよせばでは、同一の労働力の買い手が多数の労働力の買い手に値札を提示する場面がみられます。企業がひとりの労働者をヘッド・ハンティングするような場面では売り手が一方的に値札を張るようなやりかたは行なわれないと思います。

こういうことを考えると、売り手が値札を張る状況は多数の買い手が個別には小数の商品を購買し、売り手が多数の商品を販売する状況に即していると思います。つまり、価値論は、おそらく多くの論者が想定しているような一つの商品を相対取引する場面ではなく、資本家的な商人や生産者が多数の買い手に商品を販売している状況と考えるのが妥当のように思います。

コアの収束定理について

もう一つの点は、いったん、エッジワース的な交換として、市場をとらえてしまうと、「不断の不均衡の不断の均衡化」といったことは、分析から消えてしまうのではないかという疑念です。

エッジワース的な市場で取引における人数と財の種類が増加していく過程で、おこりうる競争の結果が新古典派における競争均衡に収束していく結果はコアの収束定理として知られています。これが厳密に成立するのは、財の数、主体の数が無限大の場合で、実際には競争均衡に近いパレート集合におさまることになるでしょう。その範囲で「不断の不均衡の不断の均衡化」があるといえるかもしれません。

ただ、それは均衡であって、しかも、新田さんは交渉集合上で取引されることも受け入れているのですから、静学的な状況を考えれば、主体の予算制約上で均衡が実現します。そのような状況を不均衡とは、すくなくとも大方の新古典派経済学者は見做しませんし、それが価値論がもちえている市場観をささえるものとはなりえないと思います。

主体均衡概念の強烈さ

新田さんは主体均衡概念の強烈さを過小評価しているというのが、私の印象です。マルクスの価値形態論の特質は売り手と買い手の非対称性を市場の特質として正確に把握し、それを市場認識の基礎においていることです。それは「不断の不均衡の不断の均衡化」という認識を可能にしています。

ただ、主体均衡が成立してしまえば、市場において売り手が値札を張るというということをしていても、不均衡は可能なコアの範囲におさまります。「不均衡」はせいぜい、競争均衡と現実のコアの誤差の範囲におさまります。このような経済がマルクスの価値形態論の長所を生かしているとは思えません。

ただ、逆に私が新田さんに共感しているのは、方向は私が受け入れられるものでないにせよ、明確なメカニズムを想定した上で価値論を再構成しようとしていることで、私が批判できるのも、明確な議論をされているからです。

私は「価値論と物神性論」での廣松・柄谷批判を全面的に賛同します。そこで明確にされたようなマルクス価値論の特質がマルクス経済学に十分に生かされていないとも感じています。つまり、「不断の不均衡の不断の均衡化」が経済システムにおいてどのような役割をはたしているかです。私はそれを明確にするには、新田さんがしたように、経済メカニズムを想定して分析することが不可欠と考えています。

私がそれを生かす一つの方向と考えるのは、均衡化がそもそも無理な状況で人間がなにをするかです。それはサイモンが限定合理性を強調し、手続き合理性にゆきついた方向です。限界原理と関連していえば、例えば、ほとんどの企業は自分が直面する市場の需要の価格弾力性を知りません。そのような状況で(よくはわかっていない)限界収入と限界費用を一致させるような価格を設定することは、きわめて危険なことです。通常、ほとんどの企業はちいさな需給状況の変化には価格をおおきく改訂することはなく、数量調整を行ないます。

エッジワース・ボックスに関していえば、相対取引において、互いに効用関数を知っている状況ではナッシュ交渉解という均衡が知られています。そのような実現可能な一種の主体均衡が存在します。しかし、現実には相手の効用関数などはわかりようがなく、たとえ、なんらかの推定手段があったとしても、その推定の誤差によって、大きな失敗があるとすれば、それを主体はさけようとする可能性が大きいと考えられます*2

現実の経済の環境を考えれば、主体均衡を追求することは、限定合理性のもとで、それほど「合理的な」ことではありません。むしろ、限定合理性のもとで不確実性*3を避ける行動なり行動の枠組みが必要になると思われます。

このような方向はマルクスを含む古典派やケインズ派の「ミクロ的基礎付け」になるでしょう。また、限界原理を基礎をした新古典派経済学への明確な批判を導くと思います。

「「復元論」と「分化発生論」について」がらみのことは、また近日中に書きます。

*1:影響をうけすぎるとしばしばあるものですね。

*2:ルビンシュタインが計算量が限定されたもとでの最適化行動を厳密に議論しています。その結果は計算量の限定を前提とした最適化問題はもとの最適化問題より、かならず、計算量が大きくなるという結論です。この結果が限定合理性についてどれだけ一般化されるかはわかりませんが、ある種の限定合理性を仮定したモデルの結論が常人にはほとんど計算不可能な解を導くことは、それほどめずらしいことではありません。

*3:新古典派の想定するようなリスク回避ではなく

塩沢由典『複雑さの帰結』7章から

以下のエントリでの塩沢由典さんのコメントを読むと『複雑さの帰結』での塩沢さんの文章を思いだす。
http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20140701/p1

均衡経済学がいまや経済学にとって障害になっているという主張は、ひとつの仮説である。われわれが経済学の次の段階に到達し、現在の理論的沈滞を打ち破るまで、均衡経済学が実際に経済学の障害であるかどうか知ることはできない。だから、基本的に、これはひとつの賭けである。信じるか信じないか、それはあなたの選択である。しかし、もしあなたがそれを信じるならば、あなたは特定の仕方で行動しなければならない。なぜなら、認識論的障害の考えがあなたに否定的な指図を与えるからである。あなたはどのような形であれ、どのような場合であれ、理論的ツールとして決っして均衡の概念を受け入れてはならない。拒否は全般的なものでなければならない。そうでなければ、あなたは現在の理論的閉塞状況から決っして逃げ出すことはできない。それはまさに自分自身との闘いである。しかし、そうすることがより困難に見えれば見えるほど、均衡の概念を越えて進むあなたの機会は具体的なものである。学問上の打開はこのような困難な道を通じてのみ達成可能である

『複雑さの帰結』7章「定常性の第一義性」p.254

複雑さの帰結―複雑系経済学試論

複雑さの帰結―複雑系経済学試論

私自身についていえば、若いころから塩沢さんを知っていたにもかかわらず、50近くになってやっと、塩沢さんに近い方向にふみだそうと思うようになった。それは日常的に接する多く同僚や、かつての恩師を裏切るような感覚が今でもあって、ちょっとした親殺しのように感じている。

「秋山のブログ」の『リカード貿易問題の最終解決』関連記事

更新できなかった理由。
http://ameblo.jp/chichukai/entry-11874155582.html

TPPに関する考察
http://ameblo.jp/chichukai/entry-11877367944.html

価格はどうやって決まるか?
http://ameblo.jp/chichukai/entry-11878656204.html

不況を解消するためには
http://ameblo.jp/chichukai/entry-11883957533.html

リカード貿易問題の最終解決――国際価値論の復権

リカード貿易問題の最終解決――国際価値論の復権

塩沢由典さんのコメント
http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20140412#c1403195869
で、上記のブログの記事を教えていただいた。

また、関良基さんのブログで、この記事をめぐっての塩沢さんと関さんの議論のログが公開されている。

http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/d7a636784a534cb08de7441c11abd38a

秋山さんは1ヶ月かけて、『最終解決』を読み込まれたとのことで、私なんかより、よっぽどちゃんと読んだことがうかがえる文章ばかりである。

秋山さんの力量もあるのだろうが、塩沢さんの本がとても多面的な本であることが、経済学を専門としないかたが深く内容を理解することを可能にしたようにも思う。『最終解決』はリカード・スラッファ貿易理論の完成した姿を伝える本であると同時に、そのような完成を可能にしたアプローチの特質と、なぜ、他の誰もそれができなかったかを明かにすることも目的としている。それは理論のコアを問うことでもあり、経済学の歴史を問いなおすことでもある。その意味で、内容の高度さにもかかわらず、とてもユニークな経済学入門になっていると思う。

私自身についてもなのだが、塩沢さんの経済学者への影響はかなり「破壊的」な部分があったように思う。『市場の秩序学』あたりを、ええかげんに受容してしまうと、形式だった経済学への反感ばかりが増長されるような傾向があり、塩沢さんも反経済学的ないちゃもん(あるいは、共感)をつけられて迷惑もしたのではと想像する。そのあたりでバランスをくずしちゃっている反塩沢派も塩沢シンパも『再建する』と『最終解決』を読んでバランスをとりもどすべきではと思う。(そういう人は、そもそも『近代経済学の反省』をちゃんと読めていないことを反省すべきだが。)

経済学を再建する―進化経済学と古典派価値論 (中央大学企業研究所研究叢書)

経済学を再建する―進化経済学と古典派価値論 (中央大学企業研究所研究叢書)

近代経済学の反省 (経済学研究双書)

近代経済学の反省 (経済学研究双書)

同時に秋山さんのブログを読んで感じたのは、医者で素晴しい医療経済研究家がたくさんいるのはどうしてだろうということだ。池上直己さんとか、二木立さんとか、アマチュアの域を越えている方が何人もいる。他の分野で◯◯経済の第一人者が◯◯の専門家ということはとてもまれだと思うが、医療では、すくなくとも第一人者に近いひとが医療従事者である。

それとインターネットが普及しはじめたときにも強く感じたのだが、職業的な研究者でなくても、きちんと研究している人は少からずいるということだ。

話がとてもとんでしまうのだが、職業的な研究者が学問の自由を声高にいうのが、とても嫌いで、職業的な研究者の学問の自由など、せいぜい、すべての人が学問の自由を享受できないような資源の制約のもとでくらいでしか正当化できないものと思っている。職業的な研究者なんて絶滅してしまっていて、研究したい人は研究する自由と資源があたえられるのが、本当の学問の自由の実現された状況のように感じる。リカードも、マルクスも職業的な研究者ではなかったのだし、職業的な医者がいない状況はとても困るが、学問の自由が本当に保障されたもとで職業的な社会科学の研究者がいない状況はべつに誰もこまらない。(私もふくめた大学の教員をのぞいては)