塩澤由典さんの新刊

遅くなりましたが塩沢由典さんの新刊がでてます。

リカード貿易問題の最終解決――国際価値論の復権

リカード貿易問題の最終解決――国際価値論の復権

経済学を再建する―進化経済学と古典派価値論 (中央大学企業研究所研究叢書)

経済学を再建する―進化経済学と古典派価値論 (中央大学企業研究所研究叢書)

『経済学を再建する』は著者のいずれかの方から、献本いただきました。ありがとうございます。

塩沢さんからのコメントへの返答にも書きましたが、とりわけ『経済学を再建する』は私にとって、きちんと読んで消化しなければならない本です。

まだざっとしか読んでいませんが、その範囲でも自分の経済学への認識を根本的に改める必要を感じる内容です。一つだけ指摘すれば、従来の経済学史のテキストをいくつかの点で根本的に書きなおさなければならない重要な指摘がいろいろな箇所でされています。

リカード貿易問題の最終解決』は内容を知らない人には随分とおおげさなタイトルにうつりそうですが、私がかじっている範囲でも、「最終解決」というタイトルは決しておおげさではありません。

卒直な印象として、こちらは数学的な能力の面で*1私が消化する能力をこえているのでは恐れていますが、国際経済学の専門家には、そして、すべての経済学者にとってとりくむ値打があるのではと思います。

*1:知識としてではなく、どちらかといえば、延々、証明を追っていく根性?みたいなところで

osakanaさんへの返答

長いこと放置していてすみません。私が授業で学生に知ってもらいたいと思っていることにストレートにつながっていて、ちゃんと返答したいと思っておりました。ほんとに遅くなってすみません。

私は今、大学を休学中ですが、一般教養で経済とは経世済民からきていると習いました。そこで、人々を幸福にすることが目的なのに、資本主義に偏っている日本の経済(世論?)で、果たして日本人は幸せになれるのだろうかと疑問に思いながら経済学の講義を受けていたのです。
その講義を受けながらも、そんなにお金が大事なのならば、日本はとっくに国民総幸福が高くなっていてもおかしくないのになぁ...マルクスとかの時代からずっとある学問なのに経済学ってなぜ民を救えていないままなのだろう。と大変失礼なことを考えていました。
これを期に私も詳しく経済学について勉強してみたいと思いました。

私も今の日本は幸せな国だと思っていません。なにより、若い人やホームレスのような人達の生存権がないがしろにされています。物質だけで人間は幸せになれるわけではありませんが、食べるに十分なものが得られず、なおかつ、社会がそのことに十分な関心をもっていない状況は、不幸としかいいようがありません。

経済学の根本として理解していただきたいのは、お金そのものは、ただの紙切れで、人の腹の足しにはならないということです。人が食べれるものは、食糧です。これは人間の労働によって作られます。人びとの生存権を保障するために、最低限必要なことは、みんなが働いて、人びとが食べるに足るだけのものを作ることです。お金は、そのみんなで作ったものを分けあうとき、分け前にあずかるための請求権の証書にすぎません。

確かにお金の問題は経済にとって重要ですが、状況をまちがってとらえないためには、誰が、どうやって、何をいくつつくっているかという、生産の問題を押えることだと思います。お金自体が人びとに物をもたらしているという錯覚に我々はおちいりがちですが、そうなる十分な理由もあるのですが、それは錯覚にすぎないのです。

日本は高齢化で働けない人の比率が大きくなっています。したがって、働ける人にはがんばって働かなければなりません。働ける人がみんな働いて、一人一人の働く人びとの生産性があがらなければ、日本はこれからどんどん貧しい国になっていきます。

ところが、自分は貯蓄をもっているので、それで食べれると思っている人(とりわけ、裕福な老人)は、若者の失業問題に無関心です。彼らが貯蓄で買うものも若者をふくめた人達が作ったものです。したがって、若い人の失業がふえれば、いつか彼等の消費できる物も少なくなってしまうでしょう。

お金は確かに重要です。失業を減らすために政府はお金をうまくコントロールする手段があります。それは根本的には、物がたくさんつくれても、お金がなければ物が買えない社会であるということにあります。今日のもうひとつの記事の松尾匡さんは、そうした問題に長年とりくんで、啓蒙をしてきた人です。よかったら読んでもらえればと思います。

不況は人災です! みんなで元気になる経済学・入門(双書Zero)

不況は人災です! みんなで元気になる経済学・入門(双書Zero)

今の左翼といわれる人びとの多くはお金がなければ物が買えない世の中を恨むあまり、若者に職がない、ホームレスが増えているといった状況を放置しているように思えます。お金憎しが現実を見る目をくもらせています。そういった連中が主観的には社会のことを考えているようでも、若者の支持を得られないのは当然のことです。

なんで今の日本が幸せではないのかという問に対する私の答えは、人間の生活の基盤は物であり、それは人間が働いて作るのだという、あたりまえの認識が社会の選択や政府の政策に十分に反映されていないからだということになります。経済学を勉強して、個人がすぐに幸せになるわけではありませんが、経済学の知識を皆が共有すれば、避けられる不幸がたくさんあります。

松尾匡さん快気祝いパネルディスカッション(うそ)開催(ほんとは経済教育学会春季研究集会パネルディスカッション「日本の財政と税について生徒・学生にどのように学ばせるか」)

松尾さんのホームページの愛読者の皆さんは御存知のとおり、松尾匡さんが大きな手術をされました。(右腎臓全摘しました)色々な方が心配しておられると思いますが、松尾さんが3月28日の三重大学での経済教育学会のパネルディスカッションに予定どおり参加されます。

経済教育学会の告知ページ

研究集会プログラム(pdf)

この研究集会は,「日本の財政と税について生徒と学生にどのように学ばせるか」を研究テーマにいたします。山根が研究代表をした科学研究「国の累積債務1000兆円時代における税教育理論の構築とカリキュラム開発」の研究チームが研究発表を行いますが,このテーマに関連した研究発表をして下さる方を,2名募ります。

その後,このテーマでパネルディスカッションを行います。パネリストには,猪瀬武則氏(日本体育大学),河原和之氏(元東大阪市中学校教諭,立命館大学講師),佐野岳仁氏(津税務署税務広報広聴官),松尾匡氏(立命館大学),宮原悟氏(名古屋女子大学)に登壇して頂き,山根がコーディネーターを勤めます。

春季集会の4日後の2014年4月1日から消費税が8%に上がり,その後さらに10%に上がることが予定されていますが,この機会に,今回の研究テーマについて大いに議論したいと思います。こぞってご参加ください。

日時:2014年3月28日(金) 13時から17時  (受付は12時から。その後,懇親会)

場所:三重大学・総合研究棟?・1階・メディアホール(三重大学正門より徒歩2分)

   〒514-8507 三重県津市栗間町屋町1577

*津駅東口4番バス乗場より三重交通バスで「大学前」下車すぐ。(「大学病院」行のバスには乗らないでください。また,「大学病院前」バス停で降りないでください。)

連絡先:三重大学教育学部・山根栄次研究室

〒514-8507 三重県津市栗間町屋町1577

TEL&FAX:059-231-9226

E-mail: eyamane @ edu.mie-u.ac.jp (@を半角に変更し、空白をつめて送信ねがいます。)

懇親会に参加されるかわかりませんが、もし参加されるなら、おそらくまだ酒の飲めない素面の松尾さんを酔っ払っていじってやろうと私は虎視眈々です。

消費税UP直前に「日本の財政と税について生徒・学生にどのように学ばせるか」を議論するという、大変興味深い内容になるのではと思います。

アスペルガーは(我が家に関しては)大変じゃないんですけど。

たぶん、アスペルガーネタはしばらくはこれで最後にします。

大変じゃないです。なんだか、とっても大変と思われているのを感じるので。大変な苦労している方もおられるとは思いますが、みんながみんなすごく大変なわけではないでしょう。

間接的にですが、大学に入ってから、発達障害的な傾向が問題になってきて、親御さんが狼狽するような事例をいくつか聞きます。逆にいうとそういう親御さんにとっては、それまではせいぜいちょっと性格がおかしいやつくらいの認識だったのだと思います。逆にいえば、その程度の苦労の場合も少なくないんじゃないでしょうか。

我が家でそんなに深刻な事態になっていないのは、母親が成長がゆっくりなことを全然ネガティブに考えていなかったことは大きかったと思います。おそらく、彼女自身は子供の頃、優等生だったのですが、そのことが自分の幸せに結びついていないと強く感じているようです。たぶんそのせいもあって、一郎の成長がおそいことも全然深刻には受け取っていませんでした。長い不登校の時期も、必要な対処には奔走してましたが、深刻ではありませんでした。また、彼女の家族からも受け入れられていることも大きいように思います。

私もおそらく、今なら発達障害と診断されたであろう子供時代をすごしましたが、小学校4年生くらいに数日風邪で学校休んで、登校すると授業がわかっているというような経験をして、そのうちに一郎も普通の子供になることをすごく期待していたと思います。どうもそうじゃないとわかったときは正直つらかったです。

ただ、子供というもの多かれ少なかれ親の期待どおりにはいかないわけで、そして、親の期待どおりになることが素晴らしいことなわけじゃないのだろうと思います。一郎は私のそういう期待を粉々にしながら、ゆっくりと成長しているわけですが、そのことは普通のことです。アスペルガーでなくたってあるでしょう。ねえ、お父さん、お母さん。子供への変な期待なんていうのは、愛情でもなんでもなくて、親のわがままなエゴですから、そんなもの壊されたほうがよいのです。ただ、何年か前に一郎へ自分の思いのかなりの部分が愛情などではないと気づかざるをえない経験があり、そういうのがなければ、未だにつらかっただろうなとは思います。

勝手に息子のことを実名で記事を書くのはひどい親と思うひともいると思います。そうかもしれません。しかし、いつか一郎がこの文章を読んで怒ったりするのを私は全く想像できません。彼はアスペルガーの可能性を指摘され、その説明を受けた時もきわめて冷静でした。アスペルガーであることを不幸とは全く思っていません。おそらく、周囲がそういうことにどういう反応をするかということに無頓着であることも大きいのだと思いますが、彼のそういう部分が失われることは想像できませんし、これからもそうあって欲しいと思っています。おそらく、彼はアスペルガーについて、周囲に隠し立てせずに生きていくと思います。

これから、多分、就職でかなりの苦労をするでしょうが、障害があろうがなかろうが、とりわけ昨今は、就職で苦労する人はたくさんいるわけです。周囲の学生を見ていると、就職の時点で本人と親御さんにそういった苦労が予想外の天災のように降ってくるパターンが多いのでしょうが、うちの場合は今から予想でき、準備ができるぶんだけ、随分ましだとも思います。

子供の学費よりも、飲み屋さんでお金を使いたい不良中年の私としては一郎がなんとか食べれるようになったら、すぐ定年というパターンになりそうで、それが一番悲しいような気がします。

「アスペルガーだから」は行為の動機ではない


昨日は酒を飲みながら、感情のままに書いたが、後悔もしていない。ただ、多少理屈で説明したほうがいい部分もあるので補足する。http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20130310 への補足である。

いまから書くことは、アスペルガーについての通説ではない。私が読んだアスペルガーについての本は、アスペルガーは克服したり、症状を緩和したり(それらは、ほとんどの場合、できっこない)する対象として書かれていて、社会的な側面をほとんどみていない。

われわれは他人とかかわるとき、他人の行動になんらかの期待をもって、行動を予想したり、行動の意味を解釈したりする。それによって、たとえば、「ばかやろう」といわれたときは、相手は自分をこころよく思っていないというようなことが理解できる。あるいは、言葉の調子がやわらかく、「ばかやろう」といわれたときは、深愛の情なのだと理解したりする*1

アスペルガーをふくめて、発達障害といわれている病気はこのあたりの部分が社会の多数派の人びとと同じようにできないことによって、「病気」とみなされているのだと思う。彼等の多くは「ばかやろう」がどういう場合、深愛の情なのか、判断にまようと思う。

他人や社会にめいわくをかけて、なおかつ、社会から異常のレッテルをはられない行為はけっこう多い。それらは、ある意味では社会における行為の解釈のコードによって理解可能である。いいかえれば、そういった他者を害する行為は、その結果にもかかわらず、他者の期待の範囲内の行為である。

異常=精神障害or知的障害なのであれば、朝日の記者も、いじめを放置している学校の関係者も精神異常者である。しかし、彼らの行為は正義とみとめられないにせよ、なんらかの意味で他者の期待に応えた行為であるがゆえに、また、他者の期待にこたえたことも社会から理解可能であるがゆえに、彼らは「精神異常」とはうけとられない。

ところが、そういう他者の期待を十分に理解できない人びとは他人にめいわくをかけなくても、「異常」のレッテルをはられる。彼らの行動が社会のコードをはずれているという理由から、その動機をきちんと理解される対象とさえならない。マスコミの連中が正義にもとる行動をとる理由が「アスペルガーだから」というのは動機の説明でもなんでもなく、単に「彼らは理解できない人びとだ」といっているにすぎない。

(これも個人的な印象だが、すくなくとも私の息子に関しては、世間におもねって善悪の認識をかえるということは少ない。くりかえしになるが、できないのだと思う。そういった本音と建前をつかいわけるようなことが必要なことはとても苦手である。)

アスペルガーの人びとに対して、いろいろとアドバイスをする人が専門家もふくめて多いが、すくなくとも、個人的な印象としては、息子と接する際に、問題をこじらせる原因は私が息子を単純に理解しようとするのをやめてしまうことだ。基本的にはアスペルガーであろうと、「正常」な人びとであろうと、相手の気持を理解するということが人間関係において大事なことはまちがいあるまい。ところが、専門家の見解も含めて、アスペルガーの人びとの行為は、その動機を理解されようとする以前に、「アスペルガー症候群によって引き起されたもの」とレッテルをはられる。つまり、動機を解釈されるというより、解釈不可能な行為というレッテルをはられる。

ついでにいえば、アスペルガーについての本に上記の観点で書かれた記述がまったくないわけではない。しかし、その場合の多くは本人が他者に解釈可能な行動をとるように訓練したりすることをすすめる方向に向い、周囲の人間が他者がアスペルガーであるなしにかかわらず、他者へのまっとうな配慮をすれば、状況はずいぶんましになることを指摘していることはまれであると感じている。

アスペルガーの人びとを理解しようとしないような人間関係の結末は、「空気」の支配である。人びとの行為は本人の本当の意図とはかかわりなく、社会のコードにしたがって解釈され、本当の意図や願いは無視される。アスペルガーの人びとは空気を読まないが、脳の入力を空気以外のものに向けている。アスペルガーだから、他人の気持を理解しようとしないわけではない。ただ、社会のコードにしたがった仕方で理解できないのである。「空気」の支配でにっちもさっちもいかない状況でアスペルガー的な観点から、つまり、空気とは比較的自由な観点から学ぶことはたくさんあるはずである。アスペルガーなり高機能障害への対策うんぬん以前に、必要なときには既存の社会のコードから自由に、人間の多様性を前提に他者を理解しようとすることは、社会の健康にとって、とても必要なことだろう。それは「アスペルガー症候群への理解」なんかより、ずっと大切なことだと感じる。

補足の補足になるが、すごくいいかげんな形で、廣松渉大庭健の議論を参考にしている。とりあえず、大庭健の「いま、働くということ」をあげておく。

いま、働くということ (ちくま新書)

いま、働くということ (ちくま新書)

*1:前日の文章での私の書いた「ばかやろう」は文字通り罵倒の意味である

アスペルガーの×××。

すんません.諸般の事情でいろいろと削除しました.(2016.2.18)

どうしようもないやつだ。

ご子息がアスペルガー症候群とのこと、日々大変かと存じます。
申し訳ないのですが、はてブは見ていませんし、コメントもしません。わたし自身、視覚障碍があり、1日にものを見る量が限られているためです。あしからずご了承下さい。
身内に自閉症を含む、重複障碍を持つ子どもがおりました。子どもの障碍は、周囲の理解が得にくい場合が多多あり、子どもの方も、いろいろと思い通りにならないことでパニックを起こしたりします。どうやって、社会とうまくやっていくのか、家族は毎日思い悩みつつ、過ごしました。

日々大変かと存じます。

これか?アホと違うか。

はっきり言ってお前のような「障害者に理解がある」教師がいっぱいいる。よっぽど親戚のお子さんにも「理解」があるんだろう。子供には関心が必要だ。みんなに無視されるより、「理解がある」ほうがありがたい。だけど、「大変」な奴としか理解されない悲しさを考えろ。ばかやろう。そういう関心は、ないよりましな関心でしかない。戦時中の水団のような、栄養のかけらもない愛情だ。

あんたが批判し続けた医療を腐らせる奴や、いじめをするやつが、アスペルガー自閉症のひとなのか、「正常」なひとなのか考えてみろ。お前の「正常」がどれだけ人を傷つけるのか、そして、お前の中の子供を毎日殺しているのか考えろ。

進化経済学のもろもろの用語への違和感

事務能力がないのに某学会の事務局をひきうけてしまって、てんぱっている。とりわけ、吉田雅明さんや石塚良次さんと直接やりとりができる幸運にめぐまれているのに、全然時間がつくれない。せっかく刺激をもらっているので、ちゃんと勉強したいのだができない。こんなに勉強したくてしょうがない気分になったのは何年ぶりだろうか。

というわけで、先週末に石塚さんのコメントを読んで思うところがあって、西部忠さんのホームページにあった文章を探しにいってみると、西部さんの論文の大半がpdfになって読めるようになっていた。実は翌日、同僚といっしょに学生を新潟大学であるインナー大会に引率することになっていたのだが、勉強したいしたいしたいしたいに引火して、徹夜して西部さんの論文サーフィンをしてしまった。

石塚さんには、ベルリンの壁崩壊のすぐあとに大学院にはいって、当時のマル経の主張より、近経の主張にリアリティを感じた旨をコメントの返答として書いたのだが、そのあたりのことが気になっていて、西部さんの 「多層分散型市場の理論―不可逆時間,切り離し機構,価格・数量調整―」*1なんかを見てみた。そこに「価格調整と数量調整を阻害する要因」という表があって、価格調整の部分であげられている要因のほとんどは、主流派のミクロ経済学であげられているものと同じである。西部さんは主流派と違うメカニズムを想定しているので、要因としては類似のものを考えているとしても違うようなシステムの振舞いをする可能性が高いが、そのあたりどうなんだろうと思って、「互酬的交換と等価交換―再生産経済体系における価格の必要性―」を見てみた。主流派の経済学では価格のパラメータ機能の側面しか見ておらず、価格メカニズムの理論として、そうでない課題もあるということは理解できたのだが、西部さん自身が価格のパラメータ機能(あきらかに西部さんはそれを否定する立場ではない)を、どう考えているのかはよくわからなかった。というわけで、西部さんの価格メカニズムの議論が一番詳細に書いていそうな「市場の多重的調整(上)」を読んでいるわけです。

以上はやや長いけど前ふりで、こういうわけで進化経済学1年生みたくなっているのだが、いままで新古典派に洗脳されていた立場からすると、西部さんだけでなく、いわゆる進化経済学の方々の用語の使い方にとても違和感を感じるのである。たんなる理解不足かもしれないし、まあ名前なんてどうでもいいじゃん的な対応もありうるのだが、誤解のもとになっていると思う点も多々あるので、書いておきます。

進化経済学という学派の名称

最近では、進化経済学という言葉は経済学の特定の立場をあらわす言葉になっているように思う。これにはとっても違和感がある。

進化経済学と呼ばれている立場の主流の経済学との差異は進化にかかわることがらだけではない。進化という側面は経済学の本質にかかわることであることも認めるし、進化経済学と呼ばれている学派がそれを適切にあつかいうるフレームワークの提示を目指しているのもわかる。それでも、それを主張している人びとは経済学全体の革新を目指しているのだから、経済学の特定分野である経済における進化の研究と誤解されやすいような名前をつけるのはいかがなものか。

それに加えて、「制度の経済学」にも感じるだが、主流派におされて、マルクス経済学という出自を隠している*2のではという下衆なかんぐりもしてしまう。むしろ、新古典派に継承されなかった経済学の伝統を継承している自負がつたわるような名称のほうがいいんじゃないかと思う。

分野名でないことを明確な意味でも、伝統の継承が明確であるという点においても、塩沢由典さんがしばしば使う現代古典派といういいかたのほうが、私はずっと好きである。

ミクロ・マクロ・ループ

ミクロとマクロが相互に関連しているということ自体は主流派のひとびとも否定しないだろう。私も、塩沢さんがこれをいっているのをとても雑に理解していて、最近まで何をいってんのかわからなかった。

まだまだ誤解しているのかもしれないが、ミクロ・マクロループへの誤解の原因は、主流派において、ほとんどの場合、主体の行動とは機会集合のなかからの変数の選択であって、彼らにとって、行動様式の変化というのはせいぜい選択される変数の不連続に近い変化でしかないことである。したがって、彼ら*3にとって、ミクロ・マクロ・ループと聞くと、「マクロの変数がミクロの変数を規定して、ミクロの変数がマクロの変数を規定するなんてあたりまえやん」ということになるのだろうと思う。たとえば、個々の主体の需要量、供給量と市場できまる価格の関係だってミクロ・マクロ・ループじゃんかという話になってしまう。

ところが、働きかけの限界なり、視野の限界なり、なんらかの理由で主体の行動が一定の習慣的なルーチンとしてなさざるをえなくなると、そのルーチンのと環境のむすびつきが重要な意味をもつようになる。環境は個々の主体のルーチンの産出物といえるし、特定のルーチンがとりつづけられるためには一定の環境が前提となる。ミクロ・マクロ・ループという用語はこのあたりのことが明確にならない意味でとても不適切な用語と感じている。

もう一点はたとえば、言語学におけるラングとパロールの関係など、進化経済学でいう意味のミクロ・マクロ・ループの事例になりうる素材は他の社会科学などの分野でたくさんあると思う。私はミクロ・マクロ・ループがきわだって革新的なアイディアというより、他の社会科学分野でしばしば常識になっている重要な発想の経済学への輸入とうけとっている。(塩沢さん自身の着想の経緯はちがうけども。)植村高久さん*4の著書の書評論文で塩沢さんは廣松渉にふれていたが、廣松の発想もミクロ・マクロ・ループと近いと思う。したがって、他の社会科学分野の類似の発想と連続性がわかりやすい用語のほうがよいのではと思う。

環境適応型競争と環境創出型競争

さきほどあげた西部さんの論文の中での用語であるが、環境創出型競争の中身はマルクスの特別剰余価値の生産あるいはシュンペーターの新結合(イノベーション)の導入であることは西部さん自身否定しないと思う。だったらそう呼べばという気がする。新結合の中には直接、環境にはたらきかける形のものもありうるが、ややちがった商品のバリエーションとか、環境創出という言葉からは想像できない種類の活動も多く含まれる。

新結合、あるいは特別剰余価値の生産を新古典派の理論が適切にあつかいえないことが、環境を創出するような種類の新結合の分析を困難にしていることは同意できるが、それを強調するあまりに概念の中身と用語のズレが生じているように感じる。

と文句たらたらなんですが、進化経済学に限らず、経済学の用語は意味がとりずらくなっているものがとても多い。たとえば限界はmarginalの訳語で、原語では中身を適切にあらわしているが、日本語では限界はlimitの意味でもつかわれるので、半分以上の学生がはじめはそっちの意味ととりちがえる。Increasing returnを収穫逓増としたりするのもなんだかなーである。「逓」なんて漢字、逓信病院くらいでいしょ、日常的につかうことって。死荷重というのも意味不明。あまりにも意味不明なんで、入門書ではわざわざ社会的コストとか、ちがう用語をあてはめたりしている。そんなんだったら、つかうのやめませんか、なのである。

そういうわけで、もし同意されるのでしたら、50年後、いや、いまこれから進化経済学現代古典派経済学を勉強する人達のため、ご検討ねがえればと切に望みます。

ついで

塩沢由典さん*5がいつか読む可能性が高いので。塩沢さんが池田信夫さんや小飼弾さんのブログコメントで言及していていた、塩沢さんの論文を小飼さんのブログコメントで紹介していたosakaecoは私、大坂洋です。気がついておられないようですので。

*1:リンク張るのがめんどうなんでぐぐってください

*2:すべての人びとがマル経につながる学統の出身者でないが

*3:誤解していた私も含みます。はい。

*4:植村さんに関しては先生と呼ぶと怒られるので、さんづけがしやすい。その「しつけ」のせいで、いろいろと恥もかきましたが。

*5:ここではさんづけが基本なので、先生しつれいします。