経済学における実体主義と流通主義

構造改革ってなあに?: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)

濱口さんのブログのコメント欄であった話です。乱暴に要約すると、余剰、利潤、経済成長のような経済活動の成果は流通的側面から生じるのか、生産面で生じるのかという問題です。

私は実は学部はマル経ゼミで多分聞いたこともあった議論なのですが、率直にいって、マル経でこんな話があがるのは、もしかしたら理論がちゃんとわかってない可能性もあるように思います。たとえば、近経の場合、このようなことが理論上の論争になる余地がない。したがって、マル経であっても、松尾匡氏のようにマル経と近経の差異を小さく見る立場の人もこのような論争の当事者になる可能性はないというのが、私の印象です。

たしかに、人が経済を見たり、政策やあるべき体制を考えるとき、モデルだけでなく、イメージを助けにするわけですから、この人は生産よりの発想をするとか、流通よりの発想をするとかは多分あるわけです。でも、どんなイメージにたよるかと、モデルからの帰結はわけて考える必要があるはずです。モデルからの帰結に関する限り、マルクスを含むほとんどの均衡を前提とする経済モデルで無意味になりそうな気がするのです。

近経の標準的モデルで流通主義なり、実体主義なりの議論がほとんど無意味になることは線形計画法の双対問題を例にとるのがわかりやすいと思います。なるたけ、数式なしで説明したいので、興味をもった人はとりあえず、A. C. チャンの『現代経済学の数学基礎』の下巻あたりを読んでください。

線形計画法で、ある経済で資本ストック(機械のことですね)と労働があたえられた場合、産出額を最大化する問題を考えます。産出額の計算には価格が必要ですが、価格はすでにきまったものとして考えます。生産物は複数あるとして、おのおのの生産物の生産には労働と資本ストックが必要なのですが、おのおのの生産物の生産に必要な生産物の産出量に必要な労働と資本ストックはそれぞれ産出量に比例すると仮定します。この比例係数は生産技術をあらわすのですが、これもあたえられたものと仮定します。経済の中ではあたえられた労働と資本ストックをこえて生産することはできないので、その経済で可能な生産は「各生産物の生産に必要な労働の総計≦総労働量」、「各生産物の生産に必要な資本ストックの総計≦総資本ストック量」という制約に服することになります。この問題ではその制約のもとで、産出額を最大化するわけですから、いまあつかっている問題は、

問題I

つぎの制約のもとで、総産出額を最大にするように各生産物の生産量を最大化せよ。

  • 各生産物の生産に必要な労働の総計≦総労働量
  • 各生産物の生産に必要な資本ストックの総計≦総資本ストック量

と書けることになります。

ところで、つぎのような問題を考えます。うえと同じ技術的条件をもち、労働の売り手、資本ストックの売り手が存在し、その手持ちの資産を競争的市場で企業に売るために競争している状態を考えましょう。(資本ストックについては、資本ストック自体を売るのではなく、リースすると考えたほうが、わかりやすいと思います。)競争の結果、各企業はゼロ利潤となりますが、個々の売り手は競争の結果、ゼロ利潤のもとで資本ストックと労働についての総費用が最小になる状態にゆきつくと想定しましょう。つまり、各生産物については、「1単位の生産に必要な労働×賃金+1単位の生産に必要な資本ストック×資本ストック価格≧生産物の価格」のもとで、総労働コストと総資本ストックコストが最小になっている状態が実現されるとしましょう。このような賃金と資本ストック価格はつぎの問題の答えとなります。

問題II

次の制約のもとで、経済全体の総費用すなわち、総労働×賃金+総資本ストック×資本ストック価格を最小化せよ。

  • 各生産物について、「1単位の生産に必要な労働×賃金+1単位の生産に必要な資本ストック×資本ストック価格≧生産物の価格」

この二つの問題は一方が生産における効率性を最大化する問題、他方が流通面における競争を通じた費用最小化問題にうつるかも知れません。しかし、ながらこの二つは密接なつながりをもっています。

理I

問題Iと問題IIの最適解における目的関数の値は同じである。

理II
最適解において問題Iにおいて、総労働が総必要労働量を上回る場合、あるいは、総資本ストックが総必要資本ストックを上回る場合、それぞれにおいて、問題IIにおける賃金、あるいは、資本ストック価格はゼロになる。また、問題IIにおいて、労働コストと資本ストックコストの和が価格を上回る生産物は問題Iにおける生産量はゼロになる。

つまり、生産面での生産物額最大化問題と、流通面の競争において実現される費用最小化問題の解は同じであり、流通面で決まる価格がコスト割れをする生産物は実物面からみた効率的な生産においても生産量はゼロになり、生産面で総量が必要量を上回る、つまり超過供給が解消されない財は流通面でも価格はゼロになることが示されます。実質的に、実現された状態を観察するとき、それが実物面を直接コントロールした結果生じた結果なのか、流通面における市場競争によって実現された状態なのかは、区別がつきません。

わかりやすさのために線形計画法というややマイナーな分野の結果をとりあげましたが、現在、もっとも普及している中級のマクロのテキストであるブランシャード=フィッシャーのマクロ経済学の第1章でも、最適成長モデルにおける同様の結果が紹介されています*1

じゃあ、マル経はどうかというと、森嶋のマルクス経済学のはじめにこれに関連した話があったと思うのですが、図書館までいくのがめんどいので、とりあえず、例によって松尾匡含有率を上げます。と、また思ったのですが、松尾氏の著書に資本論の詳細な引用があったので、それを孫引というか要約します。ありうる誤謬はすべて松尾さん…ではなく、大坂ですの責任です。もちろん。マルクスの価値というものがどういうものかということなのですが、価値というのは単純にいってしまえば、そのものを生産するのに必要な労働量です。こういえば、すごく実体的な概念のようですが、技術が複数ある場合、あるいは企業(資本家)ごとに生産技術が違う、あるいは生産性が違う場合にはどのように生産するかで、価値はちがってきます。マルクスはそれをどう考えていたのでしょう。結論からいえば、市場の競争によって、マーシャルのゼロ利潤に相当するような状況で決まる生産における個々の商品への投下労働を価値とよんでいたようです。

需要が供給を上回る状況では、市場のなかで、最低の生産条件の企業の費用が商品の価格を決めます。供給が需要を上回る場合には逆に、その市場の平均より高い生産性の企業の費用に対応するように商品の価格が決まります。(このへんはミクロの部分均衡のはなしとそっくりなのに注意しましょう。)市場の平均の企業より高い費用に相当する価格がついている市場からは企業は退出し、逆に平均より低い費用に相当する価格がついている市場からは企業は退出するでしょう。このマーシャル的な参入退出の結果、すべての部門での利潤率は均等化します。この状態は近経的な機会費用を考慮する立場からいえば、ゼロ利潤に相当する状態です。

したがって、マルクスの価値も単なる実体的概念というよりは、市場の競争において実現される生産条件をもとに求められるものと考えるのが妥当だろうと思います。

ながながと書きましたが、生産技術が複数ある場合、あるいは生産される財が複数ある場合、単純に実体的に生産性やら、余剰やら、国民所得やら計算することはできません。何がどのように生産されるのかによって、それらの値は変わるのであって、市場経済を前提にする場合それらが財の取り引きと関係なしに決まるわけがありません。かといって、技術的条件は企業の生産に要する費用を通じて取り引き量に影響をあたえます。したがって、流通(市場)における価格決定はつねに技術的要因を背景としているのです。

ちなみにこれらは経済の状態をある種の均衡とみなす人々を念頭においてますので、岩井克人氏のような不均衡動学を考える人々の場合どうなのか、私にはよくわかりません。わかる方はぜひ御教示ください。また、独占などの市場の状況を考慮すれば、技術と市場の関係、つまり、実体と流通の関係は議論できるはずです。実体か流通かではなく、その関係を問題にするのであれば、納得できるのですが。

というわけで、話としては利潤や成長の源泉が流通か実体かというのは面白いのですし、いろいろな論争の種になったのもわかるのですが、この辺どうなってんでしょう。私は現在、均衡理論にたてば、理論わかればどうでもいい問題になるかと感じているのですが、私がとんでもない誤解をしているかもしれません。是非御教示願います。

*1:と、引用しようとしたら、本がみつからない。あとで引用を追加したいです。