私はいかにして梅田主義者になりしや

28日に予告した爆弾です。実際に書いたのは25日。

ここ2週間くらいのこのブログにおいでの皆様本当に、感謝しています。ありがとう。今日はとにかく感謝の意を表したいのです。それには弾さんの次のエントリへの返答の形で書くのが、今の気分にはぴったりきます。

404 Blog Not Found:学力って本当に低下しているのだろうか?

私の「体感」では、学力はちっとも下がっていないどころか、格段に向上している。

それでは、話を「人類」ではなく「日本人」、そして時代をせいぜい20年ぐらいに絞った場合はどうか?やはり学力は格段に上がっているとしか思えない。特に「Web以前」と「Web後」、そして「Google以前」と「Google後」では革命的な学力の向上が見られる。

問題はむしろ、「娑婆」の学力がこれほど上がったにも関わらず、相変わらず「学力」をはかる対象が「学生」であることである。もうはっきり言ってしまえば、学力が相対的に最も低下しているのは、この現実を見ようとしない教育関係者なのだ。

このエントリのコメント欄に教育関係者も含めた反論が載っている。要は多くの人が

私にとっての「学力」の定義は、読んで字のごとく「学ぶ力」、すなわち「わからなかったことをわかるようにする力」だ。はじめから「わかっている」必要は全くない。

という意味の学力においても、大学生の学力がさがっていると感じているのである。私もこれは現状の認識としては正しいと思う。さらにいえば、Webは大学生が卒論を書くときに、書籍にあたらずにネットで済ます傾向を助長しており、その意味ではどちらかといえば、弾さんのいう意味での学力を低下させていると思う。

しかし、ほんの2週間たらずの経験にすぎないのだが、弾さんの指摘の本質的な正しさを私は実感している。私はいまやかなり強固な梅田主義者だ。

たぶん、弾さんの議論で抜けているのは、梅田的ブログ学習法が成功するある条件にふれてないからだと思う。第一の条件は弾さんもお分かりなのだろうと思う。

問題はむしろ、「娑婆」の学力がこれほど上がったにも関わらず、相変わらず「学力」をはかる対象が「学生」であることである。もうはっきり言ってしまえば、学力が相対的に最も低下しているのは、この現実を見ようとしない教育関係者なのだ。

これは私の理解ではこういうことだ。たぶん、大学の教員が考えてる「学力」は、大学の科目でいい点をとることや、指導教官のやってる研究分野をテーマにした卒業論文でいい結果を出すことだ。ここでは、かなり情報化の影響は受けているとはいえ、やはり、伝統的な勉強方法が優位性を持つ分野だ。したがって、この分野でWebやgoogleの影響力は他の分野ほど強力にはでない。

また、経済学者としての「成功」つまり、注目される学術論文を書く、あるいは査読付雑誌に研究論文をのせるのが目的なら、ブログを活用できる余地はそんなに大きくない。狭い専門分野であれば、学者仲間のネットワークにまさるものはないのだ。逆に私が2週間とはいえブログに助けられたのは、学者としての「成功」を清算したからだ。

弾さんのエントリに引用された私の記事の直後にはこう書いている。

私は投稿拒否におちいっているようなヘタレ教員でありまして、先週から、自分の研究より、弾さんそのほかブログ読んだり、書いたりしているときのほうが、経済学しているなと感じてたりするわけです。

ここでいう投稿拒否とは生徒が登校拒否するように、研究者にとって研究活動を体が拒否する状態をいっているつもりである。私は就職して数年して、完全にこの状態におちいってしまった。これを読んだ人はもしかしたら、弾さんも含めて、何か学問から逃避している人間の匂いを感じたかもしれないが、自分としては、むしろ学問へとりくめるようになった喜びを書いたつもりだ。

詳細は書かないが、つい最近、研究者としての「成功」は私の研究活動を支えるような望みではないということに気がついた。ようするに私ははじめから「成功」など、あんまりうれしくなかったのだ。あんまりうれしくない目標にむかって全力を出し切ることなどできない。でも、私は経済学の教師をやめるわけにはいかない。だから私は自分の経済学をつづけることを支えられるような望みはなんだろうかと考えた。すぐにひらめいた。それは「マルクス資本論やマーシャルの原理のような本を書くこと」。自分でもあまりにクレイジーすぎると思ってちょっと反省した。それからこう思い直した。「森嶋通夫くらいなら、満足できるな。」これでも十分クレイジーすぎるが、とにかく、自分の考えたいことをとことんまですることに決めた。この考えが浮かんでから、世界が変わったように感じた。その興奮状態のなかで「大学モデル」や「マルクスの使いみち」のエントリを書いた。「マルクスのつかいみち」はそんなつもりはなかったのだが、私にとってこれからどう経済学をしていくかの一種の宣言のように自分には感じられる文章になった。そして、これも詳細ははぶくが、十数人のグループのなかで自分のクレイジーさを受容される体験をした。それから、一週間して、放置してた「マルクスをつかいみち」のエントリを読んでもらうように、松尾匡さんにメールした。私はかなり超越的な批判をしたので、松尾さんはいい顔してくれないかなと思ったのだが、松尾さんからの速攻の返事は「おおむねおっしゃるとおり」という返事だった。その返事をもらったあと、私は今まで気がつかなかったのが不思議なのだが、松尾さんというひとは自分の学問的主張にへんなプライドをのっけたりすることがない人であることに気がついた。そして、松尾さんへの返事に日本経済学会をそのうち退会するだろうと書いた。就職してからの10年あまりを清算する儀式のように感じた。

その返事のやりとりの前後に書いたのが「経済成長」というエントリだった。まあ、だれも読まないと思って書いた。でもなぜか、ブックマークしてくれるひとやら、コメントしてくれる人やら、47thさんと勉強できそうになったり、うれしくてたまらなかった。ひとりよがりなのはよくわかっているが、私は私のした清算をひとりひとりの人から許可してもらえたように思った。

経済学者としての「成功」が目的であれば、あのエントリと同じことを書き、同じコメントをもらっても、うれしくはあっただろうが、何も学べなかったと思う。私にとって、梅田主義者となるための前提になったことは、狭い専門分野での他人からの評価のためではなく、自分の興味のために、経済モデルではなく経済現象を勉強し直すを決意したことと、それへの許可を皆さんからもらったことである。

「学力」の話にもどる。今の多くは学生は弾さんのいう意味の学力でも最低といっていい。彼らの多くは、自発的な動機で勉強することを知らない。また、勉強にかんして自発的な目標をもったとしても、それにもとづいて勉強することを許可されていない*1。すくなくとも、許可されているとは感じていない。偏差値を上げるための勉強、いい就職をするための勉強、そして、教師が学問とみとめることの勉強は許可どころか、強制されているのだが*2

勉強において自発的な目標を他人が与えることはできない。それは洗脳でしかない。私は長々と自分自身がそうした目標を見失っていることさえ忘れて、そうした洗脳をしようとしてきた。それは私にとっても、学生にとっても気持ち悪い経験だった。目標を見出しやすい環境を整えようとすることはできるだろう。また、そうした努力を大人がしていること自体、学生や子供にとっては自発性が尊重されていることを実感するきっかけにはなる。でも目標を見つけることは個人の仕事だ。

私が学生や自分の子供に対して、今、自分ができると思っている本質的な助けは二つしかない。一つは彼らの生存を助けてやること、つまり、子供に対しては住む家と食料を用意してあげること。学生に対しては、卒業、就職のための助けを与えること。もうひとつは、彼らの本当にしたいことをみつけたときに許可をあたえることだ。それはこういうことだ。「君はアインシュタインになれないかもしれないが、アインシュタインを目指す人にならいつでもなれるし、そうなってもいい。」マルクスかマーシャルになろうとしている私は、クリア不可能でゲームオーバー必至の面白いゲームを見つけた気分だ。なにがゲームオーバーだか、なにがクリアだかもよく知らないのだが、ゲームオーバーまではしばらくかかりそうだ。人の許可などいらない強い人間でなければ、がんばれる目標が見つかった人への私が考えられる唯一のプレゼントだ。

もし、他人のためではなく、自分のために勉強する決意があり、また、その決意が周囲から許されているなら、弾さんのいう意味の学力はあがるだろう。「学力」は下がる場合もあるだろうが、それでだれが不幸になるだろうか。

あーあ、書いちゃった。たぶん、私の論文を読んだ人より、このブログ読むひとの方が経済学関係者でも多いだろう。そうです。私はマルクス、マーシャルになりたい君です。「研究者」としてはドロップアウトしました。でも、私は同じような決断をこれからするであろう人のためにもいいますが、私のドロップアウトは決して敗北ではありません。また、俺はお前のそんなことを許可した覚えはないという方もおいでと思いますが、それでも、恩は一生忘れないでしょう。

*1:私のゼミ生で、勤勉意欲の高い学生はいずれも、勉強したいことがあったのに、偏差値の関係で経済学部にきた学生だ。彼らは弾さんのいう意味でとても学力があるにも関わらず、偏差値が目標にとどかなかったことと、興味のない経済学の勉強のできの悪いせいで、自分の能力に気がつけずにいる。

*2:そのことへの「許可」は強制でしかない