富山と自動車

松尾匡さんお勧めの田上孝一「実践の環境倫理」がとどいてた。たしかに面白い本なのだが、自動車のところを見て、すぐに奥付見ると立正大学の方、実例としても山の手線の話がでてくる。車の代替として、自転車を勧めておられるが、少なくとも富山では相当の不便を覚悟しないと無理である。

実践の環境倫理学―肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ

実践の環境倫理学―肉食・タバコ・クルマ社会へのオルタナティヴ

卒直にいえば、富山では公共交通機関で移動するのはすごく時間がかかる。市内のちょっとしたところにバスで移動しようとすると往復で3時間くらい平気でかかる。富山ではバスは1時間に1本なんて路線はザラだし、ほとんどの場合、一旦駅にでて、乗換えをまたなくてはならない。市電はあるが大きな書店とか、電気店とかショッピングセンターとかその手のものは市電の電停の近くにはない。車を持っていない同僚はこちらに赴任したときに電気屋に行けなくて、電化製品は全部ネット通販で買ったそうである。映画好きで車に乗らない同僚がいるが、映画館にもいけないし、レンタルビデオにもいけない。

不便だから、自動車が必要→自動車が普及しているから、大きな店は郊外に移る→郊外に行くためには自動車が必要という悪循環が多分背景にあって、ここ数年でも、道路はこれでもか、これでもかというほど立派になっていく一方で、駅前とか昔からの繁華街とかがどんどんさびれていっている。多分、都会では逆方向の循環があって、自動車なしでも生活できる環境ができているのだろう。多分、中心部の高利便性ー公共機関の発達、中心部の低利便性ー自動車の普及の組合せが複数均衡になっている気がする。(富山と同じ規模で公共交通機関が発達しているところがあれば、複数均衡の例になるんですけど、誰か知りませんか)実際、学生のころ関西に住んでいたとき、自動車が欲しいなんて一度も思わなかった。

逆説的だが、富山の状況では多分、駅前や繁華街に車でいきやすい環境を整備すれば長期的には公共交通機関で移動できる状況にちかづいていくように思う。郊外に店がでていくのは、郊外のほうが店舗を広くできるのもあるが、富山のようにある程度自動車の普及率が高い地域では駐車場代がかかるだけで敬遠される。私自身、同じような店がある場合、中心部で駐車場代がかかる店より、駐車場代がかからない郊外の店に行く。このため、中心部の店は少なくなり、公共交通機関を使う人は減って、路線の本数が少なくなる。これを食いとめるのはとりあえず、中心部に人をあつめることで、富山の場合自動車を使う人を中心部に呼びこむしかない。これには、多分、行政なり商工会議所なりもそう考えていて、旧繁華街の駐車料金は最近30分100円になっている。(その上、子連れにはコンビニで50円くらいのお菓子を子供ひとりづつにくれるから、二人つれてくと、タダで駐車できた気分になる。)

あ、いやみっぽい記事になっちゃいましたが、こういうこと書いている倫理学の本ってあんまりなくて、感動。

ソクラテスを講じる者がソクラテスのように生きることなど、教える側も教わる側も期待していない。しかし、期待しないのを当然視する風潮が蔓延していることが、倫理学という学問をつまらないものにしている一因ではないか。

教える者が教えている内容と乖離しているのが当然とすると、倫理学の教説が説教くさくなるのも当然ではないか。

それで、生れてはじめて、タバコやめよかなとか思いました。