トンデモの空白をどううめるか

うまさんへの返答を書いててにつまってしまったので、気分転換にごちょごちょ書いていたことを整理。

トンデモな奥さんとか友人とか多いこともあって(みなさん暴言失礼します)、単純にトンデモあかんという気にはなれない。ただ、私自身がトンデモに魅かれるところがあって、にもかかわらず、自分のそういう部分に不安を感じているかというと、ようは賢く生きたいと思っているからだと思う。もっといえば、自分のためと思ってやることはちゃんと自分のためになり、他人のためにすることはちゃんと他人のためになるような行動をとりたいのだ。それは行動が現実の世界に対応してなければならず、そのために世界についての知識が必要である。これは科学や疑似科学双方の人達が科学あるいは疑似科学に魅かれる動機のすくなくとも一部にはなっていると思う。

それで、トンデモが一定の有用性をもちながら、でもトンデモというケースはもう、どうかんがえていいのかわからんので、水伝のように、純粋トンデモというケースに限定したい。すでにコメント欄で書いてきたことだけど、水伝が批判されて、その批判に納得しただけでは、多分問題は解決しないと思う。おそらく、水伝先生たちは、サンマーク出版の書棚にすでに向っていることと思う。サンマーク出版が批判されれば、徳間書店にいくんじゃないだろうか。(ただ、私自身については、トンデモ批判のおかげで自分がトンデモにひっかかるような人間という自覚は確かにもてるようになった。その意味でトンデモ批判には感謝しているし、十分社会に貢献していると思う。)

私はトンデモする奴は頭が悪いとか、安易な救いにとびつくとか、そんなところで考えたくはない。(トンデモ候補としての自分を見ててもその傾向はあるが)いちおう、現実に則した行動をとりたいというまっとうな理由をもち、その手段をまちがって選択してしまったケースとしてトンデモを捉えたい。きくちさんのNHKのやつ*1でもふれられているように、疑似科学は反科学ではない。科学的なものを求めている。その科学的な求める動機はまっとうに科学をしている人と同じだと思う。その動機にそった解決がトンデモ問題の根本解決のような気がしている。

疑似科学を受容する人々は現実への切望している。彼らが科学ではなく、疑似科学を選ぶのは、単純に彼らの説明して欲しい現象を科学が説明しえないからだろう。(アインシュタインより「アインシュタインはまちがっている」を選ぶケースはとりあえず、除外)実際、彼らの、というか我々の説明を必要とする現象の多くに対して科学は無力である。それは一回きりの現象であったり、それを説明するにたりうるだけの観察が不可能な現象だったりする。我々はそれに対して、ひとりよがりな思いこみや、あてずっぽではない、根拠のある行動をとりたい。そこで、根拠として、思い込みやあてずっぽより悪いものを選択してしまうのがトンデモということになろう。

彼らの動機がある程度実現可能であれば、彼らがトンデモを選択する可能性は減るだろう。しかし、彼らの直面している問題はあまりにローカルで他人が解決策を提示する余地さえないのがほとんどではないだろうか。もし、そうなら、その解決は最終的には彼ら自身の試行錯誤の中で行なわれなければならない。私は科学的な分析が不可能な状況であっても、成功可能性の高い行動指針はある程度学習可能ではないかと考えている。この点は議論の余地があるが一応、仮定として認めて欲しい。その学習を可能にするのは個々人の試行錯誤である。

基本的には、トンデモさんに対して我々ができるサポートは、この試行錯誤を支援することのように思う。また、我々がトンデモにおちいらないためには、この試行錯誤に耐えるべきだと思う。試行錯誤のプロセスの中では、疑似科学にひっかかり、失敗する経験も必要となることもあろう。その失敗を総括する材料として種々の疑似科学批判は有用であるはずだ。ただ、うまさんの懸念とも関わるけれども、疑似科学を選択してしまった人への非難は、疑似科学信者をカルト化し、症状を悪化させるかもしれない。

だから、トンデモにならないためには疑似科学をすることを含めて、個人が自由に試行錯誤をする環境をなんらかの形で保証することだろうと思う。そのためのモデルとなるのは、現実のというより、理念としての科学や学問のような気がしている。科学はトンデモを糾弾するが、トンデモをする人を差別しない。なにより試行錯誤をくりかえすことを容認する。また、出自や立場によって、人の学説を区別しない。すくなくとも理念として学問そうである。にもかかわらず、疑似科学によって、学問の権威性が批判されるのは、一つはその理念の実現が不十分なこともあるが、内部では理念の実現をめざしながら、外の社会からは権威として認知され、また、権威としてふるまっているからでもある。この学問の社会的立場を変えることは困難であるが、学問の理念をつたえ、少くともローカルにその環境をととのえる努力をすることは無駄ではあるまい。多分、多くの研究者にとって、研究をつづける理由のひとつは、こうした理念のある環境にいたいということではないか。多分、この自由な空間としての学問の世界がなんらかの意味で社会に開かれることは、多くの人をトンデモから救うように思う。というか、それを願っている。

それと、水伝のような道徳教育自体がこうした自由な試行錯誤の場の成立を邪魔している。水伝において正しい行動は容易に観察でき、江本氏によって、そのリストがすでに与えられている。ところが現実では個人の直面する状況はローカルで、赤の他人にとっての正しい行動が自分にとって正しい行動であるとはかぎらない。自分のローカルな状況の行動指針は最終的には自分で見付けなければならない。おそらく、水伝のような道徳教育の素材を一旦うけいれた人間は、ローカルな状況から独立した行動指針を何かに求めるようになり、それを矯正するのは幾度もの挫折でしかないだろう。

科学問題を離れても、私は望ましい道徳教育とは、正しい行動リストを与えるのではなく、個人個人が個別に自分にとってのぞましい行動指針を発見することを助けることだと考えている。たとえ、素材を科学性のあるものに差し替えたとしても、水伝的な道徳教育は糾弾されるべきことは強調したい。

*1:サーベイが不足してて引用文献が片よっていることをお詫びします